大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 平成5年(ワ)2218号 判決

原告 A野太郎

〈他2名〉

原告三名訴訟代理人弁護士 光石忠敬

同 加藤良夫

同 増田聖子

被告 愛知県

右代表者知事 神田真秋

右指定代理人 相崎正人

〈他10名〉

被告 太田正博

被告両名訴訟代理人弁護士 後藤昭樹

同 佐治良三

主文

一  被告らは、各自原告A野太郎に対し一七五〇万円、原告A野一郎、同A野春子に対し各八二五万円及び右各金員に対する昭和六三年五月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を被告らの負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  被告らは、各自原告A野太郎に対し金三六三六万円、原告A野一郎、同A野春子に対し各一七六八万円及びこれらに対する昭和六三年五月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  仮執行宣言

第二事実関係

(請求原因)

1  診療契約の成立及び死亡事故の発生

(一) 被告愛知県は、「愛知県がんセンター」(以下、「被告病院」という)を開設して医療業務を営んでおり、被告太田正博(以下、「被告太田」という)は、昭和六三年当時、医師として被告病院に勤務していた。

(二) 原告A野太郎(以下、「原告太郎」という)の妻であり、原告A野一郎、同A野春子の実母である亡A野花子(昭和一七年一二月一四日生、「以下花子」という)は、同年五月一六日卵巣癌の治療のため被告病院を受診し、婦人科部長であった被告太田の診療を受け、その際被告愛知県との間で、花子の疾病につき被告愛知県の履行補助者たる医師において、花子の人権を尊重しつつ、専門医として要求される高度の知識・技術を駆使して適確な診断を行い、必要な処置を遅滞なく実施し、もって花子の疾病の回復を図るため最善の診療を給付することを内容とした準委任契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。

(三) 花子は、その後同月二〇日に被告病院に入院し、被告太田の診療を受けたが、同年九月二三日午後三時二五分被告病院で死亡した。

2  花子の被告病院入院の経緯、被告太田の花子に対する診療行為の内容及び花子の死因

(一) 花子は、昭和六三年四月一九日名古屋市内の岩田病院において子宮筋腫と診断され、同月二八日子宮筋腫の切除手術を受けた。右手術後同病院医師から原告太郎に対し、花子に対し膣式手術により子宮筋腫の切除を試みたが奏功しなかったので開腹したところ、疾病は子宮筋腫ではなく卵巣癌であり、右手術の際弾けて飛び散った病巣は掻き集めて摘出する措置をし、そのほか左卵巣及び子宮を摘出したが、同病院ではこれ以上の手術ができない旨の説明があり、被告病院婦人科を受診するよう紹介された。

(二) 花子は、同年五月一六日、被告病院婦人科において婦人科部長であった被告太田の診察を受け、同月二〇日入院し、被告太田の診療を受けることとなった。

(三)(1) 被告太田は、塩野義製薬株式会社(以下「塩野義製薬」という。)が開発した薬事法に基づく承認前の治験薬であって昭和六二年六月から臨床試験の第二相段階にあった254S(以下「本件治験薬」という)の臨床試験に関する研究グループの一員であったところ、昭和六三年五月二四日、花子に対し、本件治験薬を使用する臨床試験を行った。そして、同日以後も、別表1記載のとおり、花子に対し、本件治験薬を使用して臨床試験を行い、同時に抗癌剤塩酸ブレオマイシン、エクザール(硫酸ビンブラスチン)、ピシバニールを併用した。被告太田は、さらに、同年九月六日から一〇日までの間、別表1記載のとおり、花子に対し、本件治験薬などを投与した。

(2) 本件治験薬は、水溶性の白金錯体であり、骨髄抑制、血小板及び骨髄細胞減少等の骨髄毒性を有し、本件治験薬の第二相試験の実施要領(以下「本件プロトコール」という。)には、①症例選択の条件として、骨髄の機能が十分保持されている症例を選択すべきものとし、血小板数については一立法ミリメートル中一〇万個(以下単に「何個」と表示する。)以上ある症例と記され、②投与方法として、体表面積一平方メートル当たり一〇〇ミリグラムを一回量として、四週間の間隔で投与すること、四週間経過後に血小板数が一〇万個以下に達していない場合には、さらに二週間経過後にこの条件を充足することを確認した上で投与すること、そして、投与から六週間経過しても一〇万個に回復していない症例では、五万個以上であれば減量して投与し、五万個以下であれば、投与を中止すると記され、さらに、主な予想副作用の項では、本件治験薬の投与量を限界づける因子は血小板減少と考えられると記されているところ、昭和六三年五月二四日に花子に対し第一回目の本件治験薬投与が行われてから花子が死亡するまでの間、花子の血小板数の推移は別表2記載のとおりであり、①第一回目の本件治験薬の静注から二週間程経過した頃には、血小板数が四五万三〇〇〇個から一九万一〇〇〇個に半減し、②第二回目(同年六月七日)、第三回目(同月八日)の静注から約一〇日経過後には血小板数が一九万一〇〇〇個から六万四〇〇〇個に著減し、③第四回目(同月二七日)、第五回目(同月二九日)、第六回目(同年七月一日)の静注から約二週間後には血小板数が三〇〇〇個にまで極端に減少し、④濃厚血小板七単位の輸血が行われた後、第七回目(同月二一日)投与から二週間後の同年八月四日には、血小板数が三四万八〇〇〇個から三万二〇〇〇個に激減し、⑤第八回目(同月一一日)の投与から約二週間後の同月二三日には血小板数は八〇〇〇個になり、⑥同月二四日及び同月三〇日にそれぞれ濃厚血小板一〇単位が輸血され、同年九月一日には血小板数は五万一〇〇〇個になったが、以後の検査ではいずれも二万個を下回っている。

(3) そして、花子は、右(1)の本件治験薬の投与により、発熱、下痢、吐き気などの酷い副作用のほかに、その骨髄毒性により血小板が著しく減少して全身の出血傾向が重篤化し、多量の下血を繰り返し、同年九月一八日には、「目の前をアヒルが走る」などとうわ言を言うようになり、翌一九日からは意識が混濁し、同月二三日に出血性ショックのため死亡した。しかし、死亡診断書には、死因は、卵巣癌を原因とする脳転移部出血による呼吸不全と記載された。

3  本件治験薬に関する説明の欠如

被告太田から原告太郎や花子に対し、薬事法に基づく承認前の治験薬である本件治験薬を用いて臨床試験を行う旨の説明は全くなされなかった。すなわち、

(一) 原告太郎は、花子の被告病院入院直後の昭和六三年五月二二日、謝礼金(三〇万円)を持参し被告太田の自宅を訪ねて挨拶し、花子に対する良き治療を依頼したところ、被告太田は、原告太郎に対し、花子の疾病はエンブリオナールという大変珍しい卵巣癌であり、余後は五年程度で、早ければ一年である旨、資料が少ないためチームを作って治療に当たる旨、癌細胞を薬で小さくしてから手術するつもりであるが、強力な薬なので、治療後三日くらいは副作用で大変だけれども励ましてほしい旨を述べたが、花子に対し、薬事法に基づく承認前の治験薬を用いて臨床試験を行う旨の説明は全くしなかった。

(二) 原告太郎は、同年六月二〇日被告太田から花子に内密で面会したい旨の申出を受け、同月二四日花子の母とともに被告病院に被告太田を訪ねて花子の病状について説明を受けた。その際、被告太田は、花子の癌は、肝臓に転移し、第Ⅳ期である旨、これまで抗癌剤を使った治療を行ってきたが、今後も同じような強力な治療が必要である旨を述べたが、このときにも、抗癌剤に本件治験薬を使用して臨床試験を行う旨の説明は全くしなかった。花子は、右3(一)の治療後、発熱、吐き気、嘔吐、脱毛などの激しい副作用に苦しみ、花子の白血球数も、激減しているが、原告らは、抗癌剤が一般に副作用を伴うものであると聞いていたので、必死に花子を励ましていた。

(三) 被告太田は、同年九月初め頃、原告太郎に対し、だいぶ癌をやっつけたので、あと一押し最後の五日間の治療をして、それが済んだら手術をしようとの説明をしたが、そのときにも、被験薬を用いて臨床試験を行うという説明は全くしなかった。そして、その後、右2(三)(1)の投薬が行われ、同月二三日花子が死亡した。

(四) 以上のとおり、花子やその親族の誰一人として、被告太田や他の被告病院の医療関係者から、花子に対し薬事法に基づく承認前の本件治験薬を用いた臨床試験を行うという説明は一切受けておらず、もとより、誰もこれに同意したことはない。

4  本件プロトコール違反

(一) 本件治験薬の本件プロトコール(プロトコールとは、未承認薬物について、臨床試験を含む人間を対象とする医学研究を実施する前に、研究者が研究の目的、対象、方法等を記述する文書であり、研究手順を詳細に定めた実施手引書の側面、研究の目的、デザインの理論的根拠を記述する科学的計画書の側面、研究の方法、期間等を規定する被験者の安全基準書の側面、被験者選択の条件やインフォームド・コンセントに関する被験者の人権保障基準書の側面がある。)には、(1)症例選択の条件として、試験の時点で標準的治療法によって効果が得られなかった症例、あるいは適切な治療法がない症例とする旨、(2)主要臓器の機能が十分保持されている症例のうち血色素は一デシリッター当たり一〇・〇グラム以上のものとする旨、(3)主要臓器の機能が十分保持されている症例のうち肝機能などの検査値が、正常の上限値の二倍以内のものとする旨、(4)薬剤および試験の内容を本人または家族に充分に説明し同意が得られているものとする旨(同意書又は主治医による確認書を記録に残すこと)、(5)投与方法として、本件治験薬を他の抗悪性腫瘍療法とは併用しない旨、(6)投与量として、体表面積一平方メートル当たり一〇〇ミリグラムを一回量として投与する旨、(7)投与間隔として、四週間の間隔で投与する旨、(8)投与方法及び投与間隔として、四週間経過後に血小板数一〇万個以上及び白血球数一ミリリッター当たり三〇〇〇個(以下単に「何個」と表示する。)以上の要件を具備していない場合は、さらに二週間(計六週間)経過後にこの要件が充足されたことを確認した上で投与する旨、(9)投与方法及び投与間隔として、六週間経過後に右(8)の条件を満足していない場合は、所定の基準により減量して投与する旨、(10)血小板数五万個未満あるいは、白血球数二〇〇〇個未満の場合は、投与を中止する旨定めている(以下順次「本件(1)ないし(10)の規定」という。)。

(二) 被告太田は、右本件プロトコールに違反して、次の(1)ないし(9)の行為に及んだ。

(1) 本件臨床試験の実施時において、卵巣癌には標準的治療法たるPVB療法(シスプラチン、ブレオマイシン及びビンブラスチンの三剤を併用する療法である。以下「PVB療法」という。)が存在したから、花子に対しては、まず標準的治療法を実施しそれが効を奏さないときに本件臨床試験を実施しなければならないところ、被告太田は、これを経ないで本件治験薬を投与する処置を採り、本件(1)の規定に違反した。

(2) 本件治験薬投与前の花子の血色素は一デシリッター当たり八・五グラムであり、GOT、GPTの数値はそれぞれ一七一ユニット、一九四ユニット(正常値はそれぞれ四〇ユニット、三五ユニットである)であったのに、被告太田は、本件(2)、(3)の規定に違反して花子に対し本件治験薬を投与した。

(3) 被告太田は、本件(4)の規定に違反し、花子本人や家族に対し充分な説明もせず、同意も得ないで、本件治験薬を投与した。

(4) 被告太田は、本件(5)の規定に違反して、本件治験薬の投与と他の抗悪性腫瘍療法とを併用した。

(5) 花子の体表面積は一・三四平方メートルで、一回投与量は一三四ミリグラムが適正であったのに、被告太田は、一回投与量を一四〇ミリグラムと過大な量に設定したうえ、花子の体重が当初の五〇キログラムから昭和六三年六月一九日には四〇・五キログラムに激減していったため、体表面積から割り出した一回投与量は一二三ミリグラムないし一二六ミリグラムが妥当であったにもかかわらず、何ら減量することなく、一回投与量を二一五ミリグラムとしたり、二二五ミリグラムとするような投与を行い、本件(6)の規定に違反した。

(6) 被告太田は、花子に対し、ワン・クールと称して同年六月七日と八日、同月二七日と二九日及び同年七月一日など連日ないし一日置きの投与をし、しかも、被告太田のいう第一クールと第二クールの間隔は二週間弱、第二クールと第三クールの間隔は三週間強、第三クールと第四クールの間隔は二週間強、第四クールと第五クールの間隔は三週間弱、第五クールと第六クールの間隔は三週間強であり、本件(7)の規定に違反している。

(7) 被告太田は、本件(8)の規定があるにもかかわらず、所定の時期に血小板数及び白血球数を確認したことはなかった。

(8) 花子の血小板数及び白血球数が、本件(9)の規定の定める六週間経過後の水準まで回復しなかったことがあったのに、被告太田は、本件治験薬の投与量を一切減量せず、右規定に違反した。

(9) 花子の血小板数及び白血球数は、本件(10)の規定が本件治験薬の投与を中止すべき旨を定めている数値にまで減少したことがあったのに(例えば同年六月一八日ないしは七月一一日には中止すべきである。)、被告太田は、本件治験薬の投与を中止せず、右規定に違反した。

5  被告太田のデータ捏造及び改ざん行為

(一) 血色素データ(骨髄機能)改ざん

花子の主要臓器のうち骨髄の機能については、血色素は一デシリッター当たり八・五グラムであり、十分に保持されていなかった。しかるに、被告太田は、症例確認登録・投与開始連絡票(以下「連絡票」という。連絡票と後記の臨床調査表は、塩野義製薬の本件治験薬第二相臨床試験研究会に送付される文書である。)に、開始前の検査値として血色素一デシリッター当たり一〇・八グラムと虚偽の数値を記入の上、骨髄の障害がなく機能が十分保持されていると記入し、花子の骨髄の機能が、本件治験薬を投与する症例として、何ら問題がないように改ざんしている。

(二) GOT、GPTデータ(肝機能)改ざん

花子の主要臓器のうち肝臓の機能については、GOTが一七一ユニット、GPTが一九四ユニットであり、十分に保持されていなかった。しかるに、被告太田は、連絡票に、開始前の検査値としてGOTは七一ユニット、GPTは八四ユニットとそれぞれ虚偽の数値を記入し、花子の肝機能を示すデータが、本件治験薬を投与する症例として、何ら問題がないように改ざんしている。

(三) クレアチニン・クリアランス値データ(腎機能)改ざん

花子の腎臓機能のクレアチニン・クリアランス値は、一分当たり九四・七ミリリッターであった。しかるに、被告太田は、連絡票に、開始前の検査値としてこれを一分当たり六一・八ミリリッターと虚偽の数値を記入し、腎機能が実際よりよくないようにデータを改ざんしている。

(四) 同意についての情報捏造

被告太田は、本件治験薬の投与について、花子の同意を得ていないのに、連絡票には昭和六三年五月二〇日に、花子に関する本件治験薬の臨床調査表(以下「臨床調査表」という。)には同月二一日に花子の同意を取得した旨の虚偽の記入をし、捏造している。

(五) 投与量データ捏造

被告太田は、花子に対し、本件治験薬を同年六月八日に七五ミリグラムを、同年七月一日に七五ミリグラムを、同年九月一〇日に七五ミリグラムをそれぞれ投与している。しかるに、被告太田は、これらの事実を臨床調査表に記入しなかったほか、累積投与量が一一〇五ミリグラムに達していたのに、八八〇ミリグラムと虚偽の数値を記入し、累積投与量の情報を捏造した。

(六) 併用禁止についての情報捏造

被告太田は、ブレオマイシン、ビンブラスチン、ピシバニールの併用薬剤を投与している。しかるに、被告太田は、臨床調査表にはこれらの事実を記入せず、併用薬剤についての情報を捏造している。

(七) 症例の適格性についての情報捏造

花子は症例の適格性を欠いていたのに、被告太田は、臨床調査表には「完全例」と虚偽の記入をし、症例の適格性についての情報を捏造している。

(八) 安全性についての情報捏造

花子は主要臓器の機能について、症例選択の条件、副作用・検査値の異常、血小板・白血球の条件に照らしてみれば、本件治験薬を投与することは安全上問題があった。しかるに、被告太田は、臨床調査表には、「安全性の検討」「適」と虚偽の記入をし、安全性についての情報を捏造している。

(九) 輸血についての情報捏造

花子には、同年六月三〇日、同年七月一五日、同年八月九日、二四日及び三〇日、同年九月一六日及び一七日にそれぞれ輸血がなされ、しばしば輸血が繰り返されていたのに、被告太田は、臨床調査表の総括副作用・検査値異常欄に「その他の処置なし」と虚偽の記入をし、安全性についての情報を捏造している。

6  被告らの責任原因

(一) インフォームド・コンセント原則違反

被告太田の花子に対する本件診療行為は、花子に対し事前に説明をせず、その同意も得ないで、身体に対する侵襲を伴う本件治験薬を投与したものであって、次に述べるとおり、インフォームド・コンセント原則に違反し、故意又は過失により、花子の自己決定権を違法に侵害したものである。

(1) インフォームド・コンセント原則の内容

通常の医療行為であっても、これが患者の生命、身体に対する侵襲行為としての側面を有する以上、医療契約から当然予測される危険性の少ない軽微な侵襲を除き、緊急事態で同意を得る事ができない場合など特段の事情がない限り、原則として患者の個別の同意が必要である。その同意に当たっては、医師は、患者が自らの判断で医療行為の諾否を決定することができるよう、病状、実施予定の医療行為とその内容、予想される危険性、代替可能なほかの治療方法などを患者に説明する義務がある。したがって、右説明義務に違反してなされた同意は適法な同意とはいえない。

(2) 臨床試験におけるインフォームド・コンセント原則

臨床試験は、薬事法に基づく厚生大臣の承認を得ていない薬物について、その有効性と安全性を評価する目的で、これを動物にではなく人間に用いる行為であり、第一相(原則として少数の健康な成人志願者において治験薬の臨床安全用量の範囲などを検討する)、第二相(限られた患者において治験薬の有効性と安全性を検討し、適応疾患や用法用量の妥当性などを検討する)、第三相(多くの患者において対象とする適応症に対する治験薬の有効性と安全性を検討する)と段階的に進められる。臨床試験は、そもそもこれが医療行為として認められるかどうかという点で、医療の限界に位置する医学的実験ないし研究である。すなわち、臨床試験は、医学的適応性(患者の生命、健康を維持、増進、回復するのに必要かどうか)と医術的正当性(医学的に認められた正当な方法で行われるか)の一方又は双方が欠けるかまたは低く、また、臨床試験の実施には高度の専門的判断が要求され、その上、それまでの動物実験データ、それまでの相の臨床試験データ、海外のデータなどに照らして当該臨床試験の実施が可能か、妥当かの判断、どの部分がどの範囲で実験にあたるかの判断、実験計画のデザイン、管理、解析が妥当かの判断、実施の主体、施設、運営が妥当か等の判断が必要であるが、高度の科学・医学上の専門的判断事項である。さらに、臨床試験の実施には高度の倫理的判断が要求される。第一に被験者に重大な危険ないし不可逆的障害が生ずる危険性がないかどうか、臨床試験の重要さ、予期される利益と被験者に起こり得る危険性との比較考量など、主として研究者としての判断、第二に当該患者を被験者に選定し参加させ続けることの可否、当否、すなわち当該患者の病歴、診断像、予後、従前の治療法への反応など個別化した配慮や実験計画書の諸規定との関連で当該患者を被験者に選定することの可否、当否、参加後の病態の推移との関連で当該患者に臨床試験を継続することの可否、当否など、主として当該患者の受持医としての判断は、いずれも高度の倫理的判断事項である。しかも、この研究者としての判断と受持医としての判断は、研究の成功か当該患者の治療かで、ときに矛盾し義務の衝突が生じる。このような特徴を有する臨床試験が医療行為として許容されるためには、医療行為の正当化要素としての自己決定権ないしインフォームド・コンセント原則が、通常の医療行為よりもさらに格段に厳格に適用されねばならない。すなわち、通常の医療行為における患者の同意は、患者が自らの疾病の治癒軽減を目的とし、自分が受ける医療における意思決定過程に参加する意思に基づくが、臨床試験における被験者・患者の同意は、単に右の通常の医療行為における目的と意思のみに基づくものではなく、これに加えて、他者の幸福、医学の発展を目的とし、自己犠牲、人類に貢献する意思に基づくものである。したがって、臨床試験における被験者・患者の同意は、単なる消極的、受動的同意ではなく、積極的かつ能動的な研究者・医師に対する授権行為でなくてはならない。被験者・患者がこのような同意をする前提としては、研究者・医師が、臨床試験の目的、方法、効果、危険性、代替的治療法、質問する自由、参加しない自由、参加を中止する自由などについて十分な説明をすることが不可欠であり、被験者・患者がこれを理解することが必要である。この説明・理解・同意は、①臨床試験一般との関連で、②当該臨床試験との関連で、③当該被験者・患者の疾病、病状との関連で、それぞれ十分になされなければならない。しかし、前記のとおり、臨床試験の実施には、高度の専門的、倫理的判断が必要とされるから、当該臨床試験の可否や当否、実験性、目的、方法など科学・医学に関わる事項、安全性に関わる事項、当該被験者・患者の選定の可否、当否などの事項は、その説明が適正なものかを含めて素人たる被験者のみが判断することは本質的に困難である。被験者、患者の判断の前に、第一次的に独立かつ公正な審査システムによる科学的及び倫理的見地からの審査、又は、この審査が一部実行困難な場合は、同システムの委託に基づく研究者・医師の厳格かつ慎重な検討が行われない限り、臨床試験におけるインフォームド・コンセントは画餅に帰するほかない。したがって、高度の専門、倫理に関する事項について独立かつ公正な審査システムによる審査ないしは同システムの委託に基づく研究者・医師の厳格かつ慎重な検討が実施されることが臨床試験におけるインフォームド・コンセントの前提条件である。

(3) インフォームド・コンセント原則に関する規範等

臨床試験におけるインフォームド・コンセント原則は、専門職業規範、法、日本弁護士連合会、行政において次のとおり規定され、あるいは、決議されている。

① 人間を対象とする生物医学研究における専門職業規範としてのヘルシンキ宣言(一九六四年 七五年東京、八三年ヴェニス、八九年ホンコン改訂)は、強制収容所での悲惨な体験を告発する医師裁判の成果たる判決理由の中から生まれたニュルンベルク原則(一九四七年)をふまえて、基本原則を定めている。同宣言基本原則九は、人間についてのいかなる研究においても、被験者のそれぞれの候補者は、その研究の目的、方法、予期される利益、研究がもたらすかもしれない危険性及び不快について十分に知らされなければならず、その研究に参加しない自由及び参加への同意をいつでも撤回する自由があることを知らされるべきであるとし、その後で、医師は、被験者の自発的に与えられたインフォームド・コンセントを、なるべく書面で得るべきであると定め、基本原則二は、人間を対象とするそれぞれの実験的処置の計画および実施は、実験計画書に明確に系統だてて示され、実験計画書は、検討、意見および指導を受けるため、特別に設立され、研究者およびスポンサーから独立した委員会に送付されるべきである旨、及び、この独立委員会は、当該研究実験が実施される国の法律や規則に適合しているものとすると定めている。

② 日本では、人間についての実験を規律する成文法は、昭和五四年に政府の批准を経て国内法としての効力を有するに至った国際人権B規約七条が最初である。同条第二文は、何人も、その自由な同意なしに医学的または科学的実験の対象とされないと規定している。

③ 世界医師会東京総会におけるヘルシンキ宣言(昭和五〇年改訂)で独立委員会制が規定されて後、日本弁護士連合会は、それまでの諸警告事例や調査研究を踏まえ、昭和五五年第二三回人権擁護大会において、人体実験は、科学、医学の見地から妥当でない場合はいうに及ばず、日常治療の一環であるかの装いのもとに患者に知らせずに、または被験者を断れない状況において行うことも、生命、健康、自由に対する人権の侵害であって許されないとした上で、大学病院などは、人体実験についての第三者審査委員会を設置し、委員会の事前承認を実験実施の条件とする制度を確立すべきであること、第三者としては、動物実験などのデータや人体実験の計画管理について科学的評価のできる基礎医学系医師、及び、被験者が実験の目的、方法、危険性などについて充分に情報を与えられたうえ任意の承諾を与えたかどうかについて法的評価のできる法律家を加えること、これらの者は、いずれも大学病院などと雇用関係があってはならない旨の決議を採択した。

④ 医薬品の製造承認などの申請に関して臨床試験が行われるときは薬事法の規制に服する。臨床試験に関する一連のオリジナルデータ(以下「基礎データ」という。)の捏造、改ざん事件を契機として厚生省に設置された「新薬の臨床試験の実施に関する専門家会議」(昭和六〇年)は、「医薬品の臨床試験の実施に関する基準(案)」を公表し、被験者の選定、インフォームド・コンセント、治験審査委員会制度などにつきさらに検討を深めるべく、広く関係者の意見を求め、かつ、周知の方策が図られた。そして、これに対する日弁連の昭和六二年意見書など各界の意見を一部取り入れて修正を加えた後、「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」が平成二年一〇月から施行されている。同基準一六条は、治験実施計画書の作成及び被験者の選定に当たっては、人権保護の観点から、及び治験の目的に応じ、健康状態、症状、年齢、性別、同意能力、他の治験への参加の有無等を考慮し、治験に参加を求めることの適否について慎重に検討されなければならないと定め、同一七条一項は、治験担当医師は、治験の実施に関し、治験の内容等を被験者に説明し、治験への参加について文書又は口頭により、自由意志による同意を得るものとする旨、ただし、口頭による同意を得た場合は、その同意に関する記録を残すものとする旨を定め、同一八条は、治験担当医師は、同意を得るに当たり、治験の目的・段階に応じ、次の①ないし⑥に定める事項、すなわち、①治験の目的および方法、②予期される効果および危険性、③患者を被験者とする場合には、当該疾患に対する他の治療方法およびその内容、④被験者が治験への参加に同意しない場合であっても不利益は受けないこと、⑤被験者が治験への参加に同意した場合でも随時これを撤回できること、⑥その他被験者の人権の保護に関し必要な事項について、被験者に説明するものとすること、さらに、同法五条は、医療機関に治験審査委員会の設置を義務付け、同法九条は、治験審査委員会の業務として、治験実施の妥当性や、被験者の治験参加の同意が適切に得られているかを確認することなどを規定している。

(4) 本件におけるインフォームド・コンセント原則

本件は、抗癌剤の治験薬を臨床試験第二相の段階で患者に対して使用したケースであるから、被告太田は、花子本人又は少なくとも家族に対し、本件治験薬を使用することが臨床試験であること、すなわち、花子が臨床試験の被験者になることを説明し、本件治験薬の使用が実験であり、効果も安全性も危険性も未だ十分確認されていないことを理解させた上、当該臨床試験の目的、方法、効果、危険性、代替的治療法、質問する自由、参加しない自由、参加を中止する自由等を十分に説明し、その理解と同意を得る必要があった。

(二) データ捏造及び改ざんによる利益侵害

臨床試験データの科学性、信頼性を確保するために、データに捏造・改ざんがあってはならないことは言うまでもない。科学的非行は、やっていない観察を記録したとき(捏造)、データがより見栄えのよいように操作されるとき、仮説に適したデータのみ選択し、そうでないデータを捨てるとき等に行われる。研究者、医師が、たとえ一人の被験者、患者分の一つの項目についてでも、臨床調査表に虚偽記入するなどして臨床調査表を捏造、改ざんすることがあれば、全体の臨床試験結果が変わってくる可能性がある。全体としての臨床試験データの信頼性は、ごく数例の個別のデータに左右されることがある。これを被験者、患者の立場からいえば、被験者、患者は、信頼性のないデータないしは科学的評価に耐えない有害なデータを作り出す臨床試験に参加させられない基本的人権を有し、一人一人の被験者、患者は、自らに治験薬を使用する研究者、医師が、臨床調査表を捏造、改ざんするようなことがあれば、その参加は客観的、科学的に評価に耐えない有害な生データを作り出すにすぎず、したがって、全体としての臨床試験データの信頼性を奪い、結局、その参加は、科学にとっても人類・社会にとっても有害なものになるから、臨床試験のプロトコールにおける被験者の安全や人権保障などに関する本質的諸規定に関するデータの捏造、改ざんは、信頼性のない、科学的評価に耐えない有害なデータを作り出す臨床試験に参加させられることのない被験者、患者の基本的人権を違法に侵害する不法行為を構成し、そのような臨床試験に参加させることで個人の尊厳の保持および良質かつ適切な医療の提供を趣旨とする準委任契約上の債務の本旨に反しており債務不履行を構成する。したがって、花子は、被告太田の前記5の行為により、右に述べた被験者、患者の基本的人権を違法に侵害された。

(三) 不適切な診療行為による利益侵害

被告太田は、次に述べるとおり、あえて当時の医療水準に適合しない診療行為を行い、その結果本件治験薬の副作用により花子を死亡させた。

(1) 標準的治療法(PVB療法=BVP療法)の不採用

花子が被告病院に入院した当時、花子の卵黄嚢腫瘍(ヨークサックチューマ)に対しては、既にPVB療法が確立して、これが第一選択の治療法であり、かつ、花子には、腎機能を含めて、右治療法を実施するのに障害となる要因は存在しなかったにもかかわらず、被告太田は、あえてこれを行わなかった。

(2) 本件プロトコールの定める本件治験薬の適用条件を欠如した症例に対し、本件治験薬を投与したこと等による不法行為又は診療契約上の債務の不完全履行

① プロトコールの法規範性

昭和五四年改正後の薬事法により、新しい有効成分を含有する医薬品の臨床試験について、予め治験計画を厚生省に届け出ることが義務付けられ、プロトコール(平成九年三月改正前の「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」では、「治験実施計画書」と呼ばれている。)届出制度が発足し(薬事法施行規則六八条)、さらに被告太田の本件診療当時の薬事法施行規則六七条五項には、「治験の依頼者に対し、治験薬の内容等を説明することが医療上好ましくないと担当医師が判断する場合等を除き、治験の内容等を被験者(被験者が同意の能力を欠く場合にはこれに代わって同意をなし得る者)に説明し、その同意を得るよう要請すること」との規定が設けられた。そして、前記平成九年三月改正前の「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」によれば、プロトコールは、治験総括医師が治験を実施することの倫理的化学的妥当性について検討した上作成し、治験審査委員会がその内容を検討してこれに従って治験を実施することの妥当性を審議し、治験担当医師がこれに従って治験を実施することを義務付けられている文書である。プロトコールには、治験の目的及び段階に応じ、治験の目的、対象、被験者の選択基準、除外基準、投与方法、投与量、投与期間、併用療法の当否、治験の安全性を確保するための事項等を記載するように定められている。治験開始後、治験総括医師は、治験がプロトコールに従い、適切に実施されていることを随時確認することとされ、その変更は治験総括医師の業務であって、重大な変更については治験審査委員会の審議が要求されている。

右のとおり、プロトコールは、個々の臨床試験ごとに被験者の安全、人権及び科学性の基準を研究者のグループが検討して集約し、独立かつ公正な審査システムによる審査、承認を受けた後、厚生省に届け出ることが義務付けられた文書であり、研究者にとっては、専門職業人として遵守しなければならない基準であり、被験者との関係では、同意を得る前提条件であり、同意を得た場合の実施条件であるだけでなく、被験者の母体である社会との関係においては、科学性、倫理性を備えたものとして社会が医学研究の実施を了解する前提となるものであって、その規定のうち、被験者の安全、人権保障、臨床試験の科学性に関する本質的部分は、憲法一三条、一四条、国際人権B規約七条を通して示される法規範の性質を有するものである。

② プロトコール違反行為の法的評価

プロトコール違反行為は、被験者の安全、人権保障ないし科学性に関する本質的事項にかかり、又は、違反の態様が臨床調査表の捏造、改ざんを伴う等重大な事情のあるときは、研究者が専門職業人として遵守すべき医学研究基準に反する行為として、被験者の基本的人権を侵害する不法行為を構成するとともに、当該臨床試験に参加させることで個人の尊厳の保持及び良質かつ適切な医療の提供を旨とする準委任契約上の本旨に反する不完全な履行となる。

③ 被告太田の本件プロトコール違反行為の内容

前記4(一)で述べた本件プロトコールの各規定中、本件(1)の規定は、患者は、標準的治療法が存在する疾患の場合はその標準的治療法を受け、それが効を奏さず、他に適当な治療法がないときに新療法を受ける機会が与えられる(補充性)という被験者候補者の生命・身体の安全保護のための原則であり(ただし、患者が臨床試験の対象候補者として、代替的治療法についても説明を受け代替的治療法として標準的治療法が存在する場合はそのことを理解し同意した上で、新療法を選択した場合は、この原則に違反しない。)、抗癌剤の第二相臨床試験では通常要求される人道上当然の規定である。

本件(2)、(3)の各規定は、抗癌剤には通常強い毒性(特に血液毒性)があり、骨髄機能や肝機能等が十分に保持されていない患者を臨床試験の対象にすることは被験者の生命、身体の安全にとって極めて危険な行為であるため、被験者の人権擁護を目的とした規定である。

本件(4)の規定は、被験者の自己決定権を保障するための規定である。

本件(5)の規定は、他剤との併用は、被験者における被験薬の有効性、安全性の評価を誤らせるおそれがあるため、抗癌剤の第二相臨床試験においては通常要求される治験薬の単独投与を定めたものであり、臨床試験の科学性を保障し、かつ、科学的評価に耐えない有害なデータを作り出す臨床試験に参加させられない被験者の人権を保障するための規定である。

本件(6)ないし(10)の規定は、いずれも、本件治験薬の致命的な血液毒性から被験者の生命・身体の安全を保障するためのものである。

以上のとおり、本件(1)ないし(10)の各規定は、いずれも、被験者の安全、人権保障ないし科学性に関する本質的事項にかかるものであるから、これに違反した被告太田の前記4(二)の各行為は、研究者が専門職業人として遵守すべき医学研究基準に反する行為であって、被験者の基本的人権を侵害する不法行為を構成するとともに、当該臨床試験に参加させることで個人の尊厳の保持及び良質かつ適切な医療の提供を旨とする準委任契約上の本旨に反する不完全な履行となる。

7(一)  被告太田の花子に対する前記診療行為は、あえて医療行為としての相当性を逸脱した専断的治療行為をしたものであるか、又は、医療の業務に携わる医師として重大な過失によって行われた行為であるから、被告太田は、不法行為責任に基づき、花子の被った後記損害を賠償すべき義務がある。

(二)(1)  被告太田は、被告愛知県に雇用されて被告病院に勤務していたものであり、同病院の業務を執行するについて、花子に対し損害を負わせたものであるから、被告愛知県は、使用者責任に基づき、花子及び原告太郎の被った後記損害を賠償すべき義務がある。

(2) 被告太田の前記診療行為は、被告愛知県の履行補助者として、花子の人権を尊重しつつ、専門医として要求される高度の知識・技術を駆使して適確な診断を行い、必要な処置を遅滞なく実施し、もって花子の疾病の回復を図るため最善の診療を給付することを約した本件診療契約上の債務を履行する上で、不完全があったから、被告愛知県は、診療契約上の債務不履行責任により、花子が被った損害を賠償すべき責任がある。

8  損害

(一) 慰藉料

花子については、インフォームド・コンセント原則違反すなわち自己決定権侵害による慰謝料、信頼性のないデータ・科学的評価に耐えない有害なデータを作り出す臨床試験に参加させられない権利を侵害されたことによる慰謝料、身体、生命を侵害されたことによる慰藉料が発生する。その総額は、次に述べるとおり、三〇〇〇万円を下ることはありえず、本訴では、その内金として三〇〇〇万円の請求をなすものである。

(1) 自己決定権侵害による慰藉料

自己決定権が人に認められるべき基本的人権であり、これを侵害したことによって被った精神的苦痛が損害賠償の対象となることは、判例上確立しているところ、その損害の評価については、個別の事案の特性から、特に、標準的治療法ないしは他の代替的治療法の選択の可能性、説明義務違反と損害との因果関係の存否によって差があるものと考えられる。本件は、本来、患者が期待しうる通常(日常)診療(標準的治療法)を受ける機会を一方的に奪われ、何も知らされないままに臨床試験の被験者とされてしまったケースであり、通常診療における説明義務違反ではなく、知らないうちに実験台にされてしまった無念であり、これがいかばかりかであるかは想像するに難くない。仮に、被告太田がしかるべき説明をしていたとしたら、花子は、当時の標準的治療法であるPVB療法による治療を選択したと考えられる。代替的治療法が存在し、その選択が充分に予想できるケースである。しかも、本件においては、説明義務違反及び本件治験薬の投与と死亡との間に相当因果関係が認められるのであるから、自己決定権侵害による精神的苦痛に対する慰藉料は、一〇〇〇万円を下回ることはない。

(2) 信頼性のないデータ・科学的評価に耐えない有害なデータを作り出す臨床試験に参加させられない権利の侵害による慰藉料

かかる被験者、患者の権利を侵害させられたことによる精神的苦痛は、治験への参加が、科学的知識の増大に何ら貢献することもなく、その後の解析からも除外され、全く無意味であったという被験者の期待権に対する侵害によるというべきであり、その慰藉料が五〇〇万円を下ることはない。

(3) 身体、生命侵害に対する慰藉料

被告太田の行った臨床試験によって、花子が死亡に至ったことは明白であり、しかも、被告太田の重大な過失あるいは未必の故意によるものと評価しうるほど悪質な態様によるものであるほか、花子が死亡するまでの間、許容量を超える本件治験薬の投与により、激しい副作用によって被った身体的、精神的苦痛も甚大であり、これらによって被った花子の精神的苦痛に対する慰藉料は二〇〇〇万円を下ることはない。

(二) 逸失利益(昭和六三年当時四五歳、主婦)三四七二万円

花子は、本件医療上の過誤発生当時四五歳であり、本件医療上の過誤がなければ、平均稼働期間の終期である六七歳まで稼働することができたから、花子の逸失利益は、次のとおり算定される。

13,402,400×0.7(生活費控除)×14.580(新ホフマン係数)=34,724,894円(―万円未満切捨)

(三) 原告らは、右損害賠償請求権を相続による取得した。相続分は原告太郎が二分の一、同A野一郎と同A野春子が各四分の一である。

(四) 葬儀費用

花子の葬儀費用として原告太郎が負担した金銭は、金一〇〇万円を下らない。

(五) 弁護士費用

被告らは本件不法行為又は債務不履行を争っているので、原告らは、本件訴訟を提起し、維持せざるを得なかった。右損害額を基礎として、本件訴訟提起時に被告らが負担すべき弁護士費用を算出すれば、金六〇〇万円(原告太郎三〇〇万円、原告A野一郎及び同A野花子各一五〇万円)が相当である。

9  よって、原告らは、被告らに対し、各自本件損害賠償金として原告太郎に対しては金三六三六万円、原告A野一郎と同A野春子に対しては各自金一七六八万円及びこれらに対する花子に対し本件臨床試験を最初に敢行した日である昭和六三年五月二四日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による民法所定の遅延損害金の支払いを求める。

(請求原因に対する認否)

1  請求原因1(一)ないし(三)の各事実は認める。

2(一)  同2(一)の事実中、花子が昭和六三年四月一九日名古屋市内の岩田病院において子宮筋腫と診断され、同月二八日子宮筋腫の切除手術を受けたこと、及び同病院医師から被告病院婦人科を受診するよう紹介されたことは認めるが、その余の事実は争う。

(二)  同2(二)の事実は認める。

(三)  同2(三)(1)の事実は概ね認める。同(2)の事実は認める(ただし、血小板の減少は、本件治験薬の投与のみによるものではない。)。同(3)の事実中、本件治験薬の副作用により原告ら主張の症状が生じたことは否認し、その余の事実は認める。花子の疾病は、ダグラス窩(子宮を被う腹膜に連なる腹膜腔の一部であり、直腸の前にある腹膜の陥凹で腹膜腔の最深部をなす部分)に過鶏卵大の残存腫瘍を認める胎児性癌(卵巣嚢腫瘍と同義)の不完全手術と診断され、巨大な肝転移を伴い(末期には脳転移も起こしていたと考えられる。)、進行期Ⅳ期の段階にあって、元来予後の悪い癌である。花子の血小板減少は、腫瘍細胞の進展を原因とするDIC(播種性あるいは汎用性血管内凝固、以下「DIC」という。)により凝固と線溶が繰り返され、血小板が著しく消費された結果であり、花子の死因は、DICによる脳転移簾からの腫瘍性出血(重要臓器に転移した癌の部分で出血が起こること)であって、本件治験薬の骨髄毒性による血小板減少に起因するものではない。

3  同3の事実中、被告太田から原告太郎や花子に対し、治験薬を用いて臨床試験を行う旨の説明がなされていないことは否認し、具体的な主張事実に対する認否及び被告らの積極主張は次のとおりである。

(一) 同3(一)の事実中、原告太郎が昭和六三年五月二二日、謝礼金(三〇万円)を持参し被告太田の自宅を訪ねて挨拶し、花子に対する良き治療を依頼したこと、その際、被告太田が原告太郎に対し、花子の疾病が胎児性癌(これをエンブリオナール・カルチノーマともいうが、単にエンブリオナールとはいわない。)という大変珍しい卵巣癌である旨説明したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(二) 同3(二)の事実中、原告太郎が同年六月二〇日被告太田から花子に内密で面会したい旨の申出を受けたこと、原告太郎が同月二四日午前中花子の母とともに被告病院に被告太田を訪ねて花子の病状について説明を受けたこと、その際被告太田が花子の癌について肝臓に転移し、第Ⅳ期である旨を述べたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(三) 同3(三)、(四)の各事実は争う。

(四) 被告らの積極主張

被告太田は、次のとおり、花子や原告太郎に対し、本件治験薬を使用することを説明して、その承諾を得た。すなわち、被告太田は、花子に対する初診時の昭和六三年五月一六日、原告太郎に対し、持参されたプレパラートから花子の卵巣腫瘤が胎児性癌(エンブリオナール・カルチノーマ)か類中腎癌のいずれか明確にはできないが、そのいずれであるにしろ、未認可の薬であるが現在開発中の治験薬で期待の持てそうな薬もあるので、それを使うことになるかも知れない旨を話し、原告太郎の承諾を得た。また、花子に対しては、同月二一日、花子のベットサイドで、花子の悪性腫瘍に対する治療は抗腫瘍剤による治療が中心になること、この腫瘍についてはブレオマイシン、ビンブラスチン、シスプラチンの三剤併用療法が効果的とされてきたが、そのうちシスプラチンは、腎機能障害を起こす可能性が強いので花子のような乏尿障害のある場合には使いにくい状況にあること、一方、シスプラチンと同じ系統の白金製剤であって、まだ、厚生省から認可のおりていない二五四S(本件治験薬)という名の治験段階の薬があって、この薬は第二相の効果試験に入っていて臨床的な成績はまだ多くないが、第二相の安全試験ではシスプラチンに比べて腎機能障害が少ないと報告されていることを説明し、翌二二日にも念のため同じ説明をし、同月二三日には、本件治験薬の副作用について、通常初めに出る副作用は悪心、嘔吐で、下痢もしくは便秘となることもあること、次いで、貧血、白血球減少、血小板減少等の造血機能障害が出ること、比較的少ないが腎機能不全の可能性もあること、さらに、顔色が黒ずんできたり、髪の毛が細くなってちぢれて抜けたような状態になることなどを説明し、副作用の程度については、薬なしで耐えられるときは軽度、薬で我慢できれば中等度、薬で我慢できない場合は重度と評価することも説明した。花子は、被告病院に入院当時から卵巣腫瘤が悪性のものであることを知っており、被告太田の右説明を理解した上、本件治験薬を使用する化学療法の実施を承諾した。

4(一)  同4(一)の事実は認める。

(二)  同4(二)(1)の事実は争う。同(2)の事実中、花子の血色素及びGOT、GPTの数値については認めるが、その余の事実は争う。同(3)の事実は否認する。同(4)の事実は認める。同(5)の事実中、被告太田が花子に対し、一回の投与量として、二一五ミリグラムや二二五ミリグラムを投与したことがあったことは認めるが、その余の事実は争う。同(6)ないし(9)の事実は認める。

5  同5(一)ないし(九)の各事実中、花子の検査値にかかる事実、及び、被告太田が花子の連絡票や臨床調査表に原告ら主張のとおりデータ等の記入をしたことは認めるが、その余の事実は争う。

6(一)  同6(一)の事実中、被告太田がインフォームド・コンセント原則に違反したことは争う。

(二)  同6(二)の事実中、花子の連絡票や臨床調査表に一部不実記載があったことは認めるが、当該行為が、不法行為、債務不履行を構成し、花子の基本的人権を侵害するものであるとの点は争う。

(三)  同6(三)(1)の事実中、被告太田が花子に対しPVB療法を施行しなかったことは認めるが、その余の事実は争う。同(2)の事実は争う。治験薬のプロトコールは法規範性を有するものではなく、医師がプロトコールに違反しても、製薬企業に対して治験委任契約の債務不履行責任を負うが、被験者との関係では不法行為も債務不履行も成立せず、被験者の基本的人権を侵害するものともいえない。また、被告太田が、本件プロトコールの規定を超えて本件治験薬を使用したことは、医学的に誤りではなかった。すなわち、花子の死亡は、本件治験薬の副作用による血小板減少が原因ではないから、本件治験薬の投与が医学的に誤っていたとはいえない。また、本件治験薬の投与により、シスプラチンでは期待できない癌性腹膜炎の軽快、肝機能の改善、αフェットプロテイン(卵黄嚢腫瘍が産生し、血液中に検出される蛋白であって、腫瘍細胞が増殖すると数値が高くなり、この腫瘍の特徴的な指標になるもの)値の低下等の治療効果が見られた上、一般論として、癌治療には、抗癌剤を多量に投与する方が治療効果が上がるとされているから、被告太田は、第一、第二回目の本件治験薬の単剤投与の効果、副作用を確認した上で、第三回目から併用療法に切り替えたのは、医学的に誤りではない。被告太田が、花子に対し、本件プロトコールの規定に反しても本件治験薬を投与したのは、花子の救命、延命を図るためには、短期間に可能な限りの量の抗癌剤を投与する以外に治療法はないと判断していたからである。

7(一)  同7(一)の事実は争う。

(二)  同7(二)(1)の事実中、被告太田が被告愛知県に雇用されて、被告病院に勤務していたこと、同(2)の事実中、被告太田が本件診療契約上の債務につき被告愛知県の履行補助者として花子の診療に当たっていたことは認めるが、その余の事実は争う。

8(一)  同8(一)(1)ないし(3)の事実は争う。仮に花子が本件治験薬の副作用により死亡したものであったとしても、花子の余命は一年ないし一年半と推定されるが、生命侵害による慰藉料額は大幅に減額されるべきである。

(二)  同8(二)ないし(五)の各事実は争う。

第三当裁判所の判断

一  (一)被告愛知県が被告病院を開設して医療業務を営んでおり、被告太田が昭和六三年当時、医師として被告病院に勤務していたこと、(二)原告太郎の妻であり、同A野一郎、同A野春子の実母である花子(昭和一七年一二月一四日生)が、同年五月一六日卵巣癌の治療のため被告病院を受診し、婦人科部長であった被告太田の診療を受け、その際、被告愛知県との間で花子の疾病につき被告愛知県の履行補助者たる医師において、花子の人権を尊重しつつ、専門医として要求される高度の知識・技術を駆使して適確な診断を行い、必要な処置を遅滞なく実施し、もって花子の疾病の回復を図るため最善の診療を給付することを内容とした本件診療契約が成立したこと、(三)花子は、その後同月二〇日に被告病院に入院し、以後被告太田の診療を受けたが、同年九月二三日午後三時二五分被告病院で死亡したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

二  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

1  花子は、昭和六三年四月一九日名古屋市内の岩田病院において子宮筋腫と診断され、同月二八日その切除手術が行われたが、開腹の結果右卵巣に悪性腫瘍が認められたため、右卵巣腫瘍(一キログラム)摘出のほか、左卵巣及び子宮の全摘手術が施された。病理組織学的検査の結果卵黄嚢腫瘍(「内胚葉洞性腫瘍」なる用語も使用される。以下「卵黄嚢腫瘍」という。)と診断された。そして、右手術後同病院医師から原告太郎に対し、被告病院婦人科を受診するよう紹介されたことから、花子は、被告病院を受診することとなり、原告太郎は、岩田病院からの依頼状とともに病理標本及び右摘出物を被告病院に持参した。

2(一)  被告太田は、同年五月一六日花子を診察し、ダグラス窩に過鶏卵大の抵抗を触知し、胎児性癌の不完全手術(摘出されない腫瘍の残存)と診断した。被告病院における同日実施の病理検査によっても、同じ所見が認められ、また、同月三一日及び同年六月一五日各実施のコンピューター断層撮影法による検査(以下「CT検査」という。)やその他の諸検査(ガリュウムシンチ検査等)の結果によって、ほかに肝臓実質内転移と横隔膜を越える部分への転移が認められ、花子の病変の状態は進行期Ⅳ期と診断された。

(二) 被告太田は、花子に対し、直ちに手術をしても残存腫瘍の完全摘出は不可能であると判断し、抗癌剤の投与による化学療法(微生物感染あるいは腫瘍などに特効的に作用する合成薬品・抗生物質等の化学物質を用いて治療する方法)を採ることとした。

3(一)  当時卵黄嚢腫瘍に対する標準的な化学療法はシスプラチン、プレオマイシン及びビンブラスチンの三つの抗癌剤を併用する方法(PVB療法)であり、シスプラチンの副作用は主として腎毒性(骨髄毒性は少ない。)、プレオマイシンのそれは主として肺毒性、ビンブラスチンのそれは主として骨髄毒性であって、それぞれ毒性が異なるため、三剤を併用することにより、十分な量を投与することができ、卵黄嚢腫瘍を含む胚細胞癌の治療に効果を上げていた。

(二) 被告病院入院当日(同年五月二〇日)の花子の尿量は三二〇平方センチメートル、比重は一・〇二であって、腎機能は正常であることを示し(なお、被告太田は、翌二一日には不肢浮腫の治療のため利尿剤ラシックスを投与している。)、同月二三日実施の血清検査の結果では、血清クレアチニン値が一デシリッター当たり〇・七ミリグラム、同月二五日実施の腎機能検査の結果では、クレアチニン・クリアランス値が一分当たり九四・七ミリリッターであって、いずれも正常値を示し、ほかにもPVB療法を実施するため障害となるべき所見は認められなかった。

(三) また、被告太田は、それまで卵黄嚢腫瘍患者の診療に当たったことはなく、もとより当該疾病に対しPVB療法を実施したこともなかったため、その治療効果について臨床経験に基づく見識があったわけではなかった。しかし、被告太田は、花子に対し、標準的治療法であるPVB療法を施行せず、本件治験薬を使用することを決めた。

4(一)  本件治験薬は、塩野義製薬が開発した薬事法に基づく承認前の治験薬であって、昭和六二年六月から第二相臨床試験の段階にあり、当時その有効性、安全性が十分確認されていたわけではない。被告太田は、右臨床試験に関する研究グループの一員であり、塩野義製薬と被告病院との本件治験薬第二相臨床試験研究に関する当初の委託契約期間中に、対象となる症例がなかったため、被告太田は、昭和六三年四月一日、被告病院総長に対し、委託契約期間の延長(平成元年三月三一日まで)を申請して、その承認を得ていた。そして、昭和六三年五月一六日に花子が被告病院婦人科を受診したことから、被告太田は卵黄嚢腫瘍患者である花子の診療に当たることになった。

(二) 本件治験薬は、シスプラチンのクロルの位置にグリコール酸残基が結合した白金錯体であり(鑑定人波多江正紀は「シスプラチン誘導体」と表現している。)、シスプラチンより水溶性が良好であるが、動物実験や健常者に対する第一相の臨床試験の結果、造血機能障害を来す副作用が明らかになり、血小板減少を中心とする骨髄毒性が用量制限因子とされ、この点が、薬理作用上シスプラチンとの重要な相違点である。本件治験薬の第一相臨床試験によって、体表面積一平方メートル当たり一二〇ミリグラムを投与すると白血球減少のほかとりわけ強い血小板減少が生じ、約半数の症例に重篤な血液毒性が出現したため、本件治験薬の第二相臨床試験の治験計画書(すなわち、本件プロトコール)は、被験者保護の見地から、被験者に対する本件治験薬の一回の投与量を体表面積一平方メートル当たり一〇〇ミリグラムとし、四週間の間隔で投与すること、症例選択の条件として、主要臓器(骨髄、心、肺、腎など)の機能が十分保持された症例とし、血色素は一デシリッター当たり一〇・〇グラム以上、肝機能などの検査値が、正常の上限値(GOT、GPTについての正常値は、それぞれ四〇ユニット、三五ユニットである。)の二倍以内のものとし、そのほか、他の抗癌剤との併用禁止等を定めた(なお、本件治験薬は、その後第三相の臨床試験を経て薬事法による厚生省の承認を得たが、使用の際の用法・用量として、体表面積一平方メートル当たり八〇ないし一〇〇ミリグラムを一回の投与量とし、四週間休薬することと定められたから、事後的にみても、投与量、投与間隔に関する本件プロトコールの定めは、むしろ若干緩やかであったとはいえても、決して厳しい規制ではない。)。

他方、第一相の臨床試験の結果による本件治験薬の治療効果については、第二相臨床試験研究会全体会議において、断片的ではあるが、手応えがあったとする報告がなされた程度であり、第二相臨床試験婦人科分科会においては、シスプラチンに比べて少し効果が弱いかも知れないとの報告がなされていた(なお、《証拠省略》によれば、実際に被告太田が花子に対し本件治験薬を投与したことによる治療効果も、本件治験薬だけでは、卵黄嚢腫瘍の特徴的な指標となるαフェットプロテイン値の緩やかな低下が見られる程度であって、これを超えるものではなかったため、後述するとおり、被告太田は、本件プロトコールの禁止事項である本件治験薬と他の抗癌剤との併用療法をあえて実施するに至ったものと認められ、したがって、事後的にみても、本件治験薬はシスプラチンを超える治療効果を有する薬剤であるとはいえない。)。

(三) 同月二三日実施の抹消血検査結果によれば、花子の血色素は一デシリッター当たり八・五グラムであり、同月二三日実施の血清検査によれば、GOTが一七一ユニット、GPTが一九四ユニットであって、本件プロトコールが症例選択の条件として骨髄機能、肝機能に関して定めた基準を充足していなかった。なお、被告病院入院時の花子の身長は一四八・五センチメートル、体重五〇キログラムであったから、投与量に関する本件プロトコールの規定をこれに当てはめれば、一回の投与量は約一四〇ミリグラムとなる。

5(一)  被告太田は、花子に対し、別表1記載のとおり、本件治験薬を、(1)同年五月二四日に単剤で、(2)同年六月七日から同月一一日まではプレオマイシン及びビンブラスチンとの併用で、(3)同月二七日から同年七月一日まではブレオマイシン及びビンブラスチンとの併用で、(4)同月二一日に単剤で、(5)同年八月一一日に単剤で、(6)同年九月六日から同月一〇日まではブレオマイシン及びビンブラスチンとの併用でそれぞれ投与した(右(1)ないし(6)の化学療法を以下順次「一ないし六コースの化学療法」ということがあり、また、これらの化学療法を「本件化学療法」と総称することがある。)。

(二) 本件プロトコールの規定に照らせば、右(一)の本件治験薬の投与のうち、適正量の投与は最初の一回だけであり、その余はいずれも適正量の一・二五倍ないし一・八倍の量が投与され、四、五コースの化学療法においては、当時花子の体重が入院時より二〇パーセント以上減少しているにもかかわらず、一五〇ミリグラムが投与された。投与間隔も本件プロトコールの規定に適合しないほか、二、三及び六コースの化学療法においては、本件プロトコールの定める禁止事項である他の抗癌剤ブレオマイシン及びビンブラスチンと併用する使用方法が採られた(以下「本件三剤併用の化学療法」ということがある。なお、証人福島雅典は、この療法について、シスプラチンのアナログである本件治験薬とプレオマイシン及びビンブラスチンを併用するもので、「PVB療法もどき」と評しているところ、同証人の指摘するように、本件治験薬の副作用がシスプラチンと異なり骨髄毒性であり、同じ用量制限因子を有するビンブラスチンと併用しているため、骨髄毒性が増幅される点がPVB療法とは決定的に違う。)。

6(一)  本件治験薬が投与される前日の同年五月二三日から死亡するまでの花子の血小板数の推移は別表2記載のとおりであり、(1)第一回目(同年五月二四日)の本件治験薬の投与から二週間程経過した頃には、四五万三〇〇〇個から一九万一〇〇〇個に半減し、(2)第二回目(同年六月七日)、第三回目(同月八日)の投与から約一〇日経過後には一九万一〇〇〇個から六万四〇〇〇個に著減し、(3)第四回目(同月二七日)、第五回目(同月二九日)、第六回目(同年七月一日)の投与から約二週間後には三〇〇〇個にまで極端に減少し、そのため同年七月一五日には濃厚血小板七単位が輸血され、一時三四万八〇〇〇個まで増加したものの、(4)第七回目(同月二一日)の投与から二週間後の同年八月四日には、三万二〇〇〇個に激減し、(5)第八回目(同月一一日)の投与から約二週間後の同月二三日には八〇〇〇個になり、(6)同月二四日及び同月三〇日にそれぞれ濃厚血小板一〇単位が輸血され、同年九月一日には血小板数は五万一〇〇〇個になったものの、以後の検査ではいずれも二万個を下回った。

(二) 一般的に、血小板数が一〇万個以下になれば、異常値となり、三万個以下になれば、何時何処で出血してもおかしくない状態となり、一万個以下になれば(グレード四の段階)、投薬を中止し、自らの骨髄によって産出される血小板数が一〇万個になるまで骨髄機能が回復するのを待ち(骨髄機能低下に起因する血小板減少症について、積極的な支持療法はなく、血小板輸血の効果も二、三日だけで一時凌ぎの緊急避難的処置でしかない。)、次のコースの化学療法を実施するのが原則であり(かつ、次のコースでは投与量を減量する。)、二〇〇〇個以下になれば、感染症を惹起し、一〇〇〇個以下になるとほとんどが高熱を発するに至る。

(三) そして、花子も、血小板減少のため、同年八月二二日から点状出血斑等の出血傾向を呈し、同年九月一四日頃から白血球減少症(顆粒球減少症)による消化管内等に感染症を併発し、多量の粘血便の排出や多量の鮮紅色下血を来すとともに高熱を発し、同月一八日からは血小板減少症による脳出血のため中枢神経系の異常が出現し、同月二三日本件化学療法による骨髄抑制に伴う出血と感染のため死亡するに至った。

以上の事実が認められる。もっとも、被告太田本人は、本人尋問において、右認定に反し、花子の血小板減少症の主要な原因は、腫瘍細胞の進展を原因とするDICにより凝固と線溶が繰り返され、血小板が著しく消費されたことにあり、花子は本件治験薬投与後も骨髄機能の回復能力を有していたものであって、花子の血小板減少症に対する本件治験薬の影響は二〇ないし三〇パーセント程度にすぎない旨、また、花子の死因は、脳転移巣からのDICに起因する腫瘍性出血である旨、花子についてDICが生じた事実は、被告太田が同年八月一一日頃岩田病院から送られた花子の手術標本を再検討した結果、癌細胞自体の血管内への浸潤、血管内のフィブリン血栓の形成及び血管の支配領域での出血壊死巣の所見が認められたことから確認できた旨それぞれ供述し、被告太田の陳述書である乙第二八号証、第三三号証中にも同趣旨の記載がある。

しかし、《証拠省略》によれば、(一)DICは全身症状であり、被告太田のいう病理検体の所見から診断できるものではなく、本来DICの診断にはフィブリノゲン、フィブリノゲン分解産物(FDP)等の血液凝固線溶系の諸検査の結果が必須であること、(二)一般に腫瘍の中の血管はもともと血流障害や血栓が生じやすく、腫瘍の中の血管に血栓があるからといってDICと診断できるものではなく、病理学的に診断するとすれば、少なくとも二臓器の微小血管の中に微小血栓が確認される必要があり、花子の左右卵巣、子宮のいずれの標本からも、微小血管の中に微小血栓は認められなかったこと、(三)かえって、右(一)の検査が行われていないことや臨床経過から見ると、花子の場合DICが惹起されたとは考え難く、DICに対する治療も一切行われていないこと、(四)本件治験薬の副作用による骨髄機能低下は、三週間後に最大になり(当該機能の指標となる数値は最低となる。右最低値を以下「ナディア」という。)、その後回復するものの、これを繰り返すうちに機能自体が疲弊を来たして回復力も減弱し、花子の場合も、本件化学療法の継続に伴い、白血球数につきナディアが一七〇〇個、九〇〇個、一〇〇個と順次低下するなど骨髄機能の疲弊が認められたこと(なお、白血球の減少は、DICでは説明できない。)、また、(五)卵黄嚢腫瘍は、多くの場合血管には浸潤しないほか、肝臓に転移することはあっても、脳に転移することはほとんどないこと、(六)花子の卵黄嚢腫瘍自体については、この腫瘍の特徴的な指標となるαフェットプロテインの数値が、入院当初の一ミリリッター当たり十数万ナノグラム以上から、昭和六三年九月一四日には二〇・八ナノグラムにまで劇的に減少し、肝転移の腫瘍についても、うち一つはほぼ消失し、もう一つも領域が狭くなり、陰影も薄くなるなど、本件化学療法によく反応していたので、DICを惹起するような腫瘍細胞の進展があったとは考えにくいこと、(七)花子の場合、血小板減少症に伴う出血症状が皮膚に既に発現し、その後中枢神経系の異常が突然発症している経過に照らすと、右中枢神経系の異常は、脳に転移した新病変からの腫瘍性出血によるものとは考えられず、むしろ、血小板減少症による脳内出血を来たしたものと考えられること、以上の事実が認められる上、《証拠省略》によれば、被告太田自身、花子に関する本件治験薬の臨床調査表において、花子の血小板減少と本件治験薬投与との因果関係は確実であり、本件治験薬による副作用の程度は、同年六月一八日の時点で中等度、同年八月一〇日の時点では重度、同月一一日及び同年九月八日の時点では重篤と記載しているから(なお、被告太田は、本人尋問において、副作用の程度の記述ではないと述べて、これを否定するが、採用することができない。)、これらの事情に照らして、被告太田本人の前記供述部分や前掲乙第二八号証、第三三号証の各記載は採用することができない。

また、被告太田の前記陳述書のうち本件鑑定書提出後に作成された乙第三三号証には、花子の卵黄嚢腫瘍が腫瘍倍増速度が極端に早い癌であったため、癌細胞の増殖により大量の血小板が消費された旨の記述があるが、被告太田自身、右陳述書の中で、推測を含む議論であり、そのため本人尋問の際には供述を差し控えたと述べており、臨床的、病理学的所見による裏付があるとはいえないこと、かえって、前示のとおり、花子のαフェットプロテインの数値は劇的に改善され、肝転移の腫瘍についても縮小等が認められたが、反対に、この間、血小板数は当初良好な数値を示していたのに、途中一時的な回復があっただけで、全体として急速な減少傾向を続けていたこと、《証拠省略》によれば、名古屋大学医学部産科婦人科教室東海卵巣腫瘍研究会の研究報告中、死亡例のαフェットプロテイン値の推移を示す曲線には、再発時における腫瘍摘出時の下降速度に匹敵する速度の上昇曲線が認められ、薬剤耐性を獲得した腫瘍細胞の再増殖を示すものと考えられるが、花子のαフェットプロテイン値の推移を示す曲線には、そのような腫瘍細胞の再増殖を窺わせる上昇曲線は認められなかったこと、以上の諸事情に照らして、採用することができない。

そのほか、《証拠省略》中、前記認定に反する部分は、右に説示した事情に照らして採用し難く、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

以上の次第であって、(一)本件治験薬の薬理作用(骨髄毒性)、その過剰投与及びビンブラスチンとの併用による危険性、(二)本件治験薬を使用した本件化学療法の施行と花子の血小板数の推移との間の相関関係(別表2のとおり)、(三)血小板数のグレード四の段階における投薬中止及び骨髄機能回復確認等の一般的な措置の懈怠に加え、本件治験薬の過剰投与を含む本件三剤併用の化学療法等が継続されたことによる重篤な血小板減少症発現の高度の危険性、(四)他の要因の関与を示す証跡の不存在等前示の諸事情にかんがみると、花子が、本件化学療法により骨髄機能に重篤な障害を来し、血小板数が著しく減少して急性の血小板減少症による出血傾向が発現したほか、白血球減少症(顆粒球減少症)による消化管内等の感染症を併発し、その結果死亡するに至ったことの医学的機序は明らかというべきである。

三  被告太田の本件診療契約上の債務の不完全履行又は医師としての過失について検討する。

1  右二の認定事実及び鑑定の結果によれば、被告太田は、花子に対する卵黄嚢腫瘍の治療をするに当たり、当時標準的治療法とされ、薬理上も高度の合理性を備えたPVB療法を採用せず、かえって、未だ十分に安全性、有効性が確認されておらず、むしろ、第一相の臨床試験からは骨髄毒性による重篤な造血機能障害の危険性が指摘され、かつ、シンプラスチンよりは治療効果が弱いと報告されていた本件治験薬の使用を決め、使用方法も、本件プロトコールが被験者保護の見地から定めた投与量、投与間隔に適合せず、禁止事項とされた他の抗癌剤との併用を行った上、花子の血小板減少がグレード四の段階に達しても、投薬中止、骨髄機能回復確認等の一般的処置を採らず、重篤な血小板減少症の発現が高度の蓋然性をもって予見できたにもかかわらず、同じく骨髄毒性を用量制限因子とする二つの抗癌剤である本件治験薬とビンプラスチンを併用し、かつ、本件治験薬を過剰投与して、あえて骨髄毒性を増幅させる本件三剤の化学療法等を継続した結果、骨髄抑制に伴う出血と感染のため花子を死亡するに至らしめたものと認められるから、被告太田は、医師として、花子の疾病に関する当時の医療水準に適合する診療行為を行い、かつ、患者の危険防止のため当時の医学的知見に基づく最善の措置を採るべき注意義務に違反したほか、被告愛知県の履行補助者として、花子の人権を尊重しつつ、専門医として要求される高度の知識・技術を駆使して適確な診断を行い、必要な処置を遅滞なく実施し、もって花子の疾病の回復を図るため最善の診療を給付することを内容とする本件診療契約上の債務を履行するにつき、不完全があったものというべきである。

《証拠省略》中、花子の疾病が進行期Ⅲ期又はⅣ期の胎児性癌であり、鶏卵大の腫瘤が触れる不完全手術であったため、PVB療法を行っても良い成績が得られるとは考えられなかったこと、及び、花子について乏尿が認められ腎機能に障害があったため、シスプラチンの投与は適当ではないと判断されたので、PVB療法を採用せず、本件治験薬を投与した旨、花子の血小板の大量消費は、大部分が腫瘍細胞の進展によるものであり、腫瘍細胞の進展による血小板の大量消費をそのままにしておくと、癌死するしかなかったこと、及び、花子に対する本件治験薬の安全性及び有効性は、第一回目や第二回目の投与によって確認できたので、本件治験薬を多量に使用したり、ビンプラスチンを併用することにより、癌治療の効果をあげる治療法を採ることには医学的相当性があった旨の部分は、前示のとおり、当時花子にPVB療法実施の障害となる腎機能の低下等の事情はなかったこと、(《証拠省略》によれば、腎機能が低下し、薬剤の毒性排泄機能に障害があれば、腎毒性のある抗癌剤だけでなく、他の毒性の抗癌剤の使用にも支障が生じることが認められる。)、第一相の臨床試験の結果によっても、本件治験薬の治療効果が、シスプラチンを超えるものと判断すべき根拠はなく、被告太田が実際に花子にこれを使用した結果も、単剤ではαフェットプロテイン値の緩やかな低下を超える治療効果はなかったこと、そのため、被告太田は、本件治験薬とプレオマイシン及びビンブラスチンを併用して、「PVB療法もどき」にしたが、同じく骨髄毒性を用量制限因子とする二つの抗癌剤である本件治験薬とビンプラスチンを併用することは、重篤な骨髄機能障害を来す高度の危険性があって、医学的相当性を欠くこと、花子の血小板減少症は、本件化学療法による骨髄毒性に起因するものであって、DICによる腫瘍性出血ではなく(DICと考えるのを相当とするような臨床的、病理学的所見もなかった。)、骨髄毒性を増幅させる本件三剤の化学療法等の継続は、症状を悪化させるだけであって、何ら合理性がないこと、以上の諸事情に照らして採用し難く、他に右の認定判断を左右するに足りる証拠はない。

ところで、原告らは、被告太田が、右の医療上の過誤行為のほか、医師が治験薬の臨床試験や治験薬を使用する診療行為を行う際の準則(プロトコール)に違背し、臨床試験の基礎データの捏造や改ざんに及び、さらにはインフォームド・コンセント原則に違反する行為があった旨主張する。原告らの右主張事実は、被告太田の花子に対する一連の医療過程におけるいくつかの行為を捉え、あるいは異なった観点から評価・判断を加えるものと考えられ、これらの行為による法的責任については、最終的には前述した被告太田の医療上の過誤行為と一体的に評価・判断されるべきものと考えるが、これらの点の検討結果により、被告太田の医師としての注意義務違反の程度及び態様がより明確になり、場合によっては責任原因(過失又は不完全履行)の競合の問題になりうるほか、利益侵害行為の具体的態様にかかる事情として慰藉料額の算定等にも影響を及ぼすことが考えられるから、次にこれらの点について検討することとする。

2(一)  臨床試験について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 新薬を開発し、あるいは標準的治療法により優れた新しい治療法を探究するためには、当該薬剤や治療法の人の機能に対する効果、反応等を研究することが必要であり、臨床試験は、医学、医療の進歩という公共の福利を促進し、また、患者を被験者とする第二相の臨床試験は、被験者に対し診断上、治療上の便益をもたらす側面があるが、反面人体実験の要素もあるから、かかる行為が倫理的に許容されるためには、情報を開示して(インフォームド)被験者の同意(コンセント)を得ること、及び、治験計画が科学的根拠に基づいて適正に構築され、専門的な知識と訓練を積んだ研究員により、一般的に承認された手技、方法に従って実施されること等により、被験者の危険を最小限に抑制することが必要不可欠である。臨床試験は、事前に予測できない副作用や未知の危険性を伴うから、被験者の安全等人権の保護に十分配慮しなければならず、また、科学的な適正性を保持し、科学的に疑わしい研究のため被験者が利用されてはならない。世界医師会総会は、人間を対象とする生物医学的研究倫理として、昭和三九年に「人間を対象とする生物医学的研究に携わる医師のための勧告」(ヘルシンキ宣言、その後、昭和五〇年東京宣言で、昭和五八年ベニス宣言で、平成元年香港宣言でそれぞれ改訂された。)を採択し、①基礎実験と動物実験を経て、科学的に治験を実施すること、②治験計画は治験実施計画書に記載し、それを治験審査委員会で審査すること、③治験は医師が行い、被験者の同意があっても、責任者は医師であること、④治験の重要性と被験者のリスクを比較し、考慮すること、⑤治験による被験者の利益とリスクを比較し、被験者の利益を優先すること、⑥被験者のプライバシーを尊重し、また、治験による影響を最小限にとどめること、⑦被験者のリスクを予想できない場合は、治験を行わないこと、⑧本宣言の原則に従わない治験は、結果を公表すべきでないこと、⑨被験者には十分な説明を与えたうえで、できるだけ文書でインフォームド・コンセントを取得すること等の基本原則を謳っている。

(2) 治験薬の臨床試験について、昭和五四年法律第五六号による改正後の薬事法により、治験計画の厚生省に対する事前届出義務(同法施行規則六八条)、及び、治験の依頼者に対し、治験薬の内容等を説明することが医療上好ましくないと担当医師が判断する場合等を除き、治験の内容等を被験者(被験者が同意の能力を欠く場合にはこれに代わって同意をなし得る者)に説明し、その同意を得るよう要請すべき旨(同規則六七条五項)が定められた。

被告病院は、製薬会社等から委託される治験薬の研究に関し、昭和五九年四月一日施行の「愛知県がんセンター受託研究取扱規程」を設け、①委員長である総長と、総長の指名する委員から構成される治験薬の受託研究に関する審査委員会を設置すること、②研究委託申込の受託決定は総長が行うこと、③研究担当者は、受託研究のうち臨床試験の実施に当たり原則として患者又はその保護者の同意を得るものとし(昭和五九年四月一日施行の「愛知県がんセンター受託研究実施細則」によれば、同意は同意書により行う旨が定められている。)、患者の安全について適切な配慮をしなければならないこと、④研究実施責任者は、当該研究を終了又は中止したとき、若しくは、延長の必要があるときは、その結果又は経緯を速やかに総長に報告しなければならず、総長は、研究の中止及び延長がやむをえないと認められるときは、委員会に報告するとともに研究委託者に通知すること等を定め、被告病院内部における臨床試験等に関する倫理的規制を図ることとなった。さらに、被告病院は、昭和六一年一月一日施行の「愛知県がんセンター倫理審査委員会設置要綱」を設け、同病院所属医師及び研究者が行う人間を直接対象とした医学の基礎的及び臨床的研究について、ヘルシンキ宣言の基本原則の観点から倫理的配慮に関する審査を行うこととし、被告病院倫理審査委員会が、特に①研究の対象となる個人の人権の保護、②被験者に理解を求め、同意を得る方法、③研究によって生ずる個人への不利益と医学上の利益又は貢献度の予測の各点に留意して審査することを定めた。

(3) 被告太田は本件治験薬に関する塩野義製薬の第二相の臨床試験研究会に所属する研究員であったところ、塩野義製薬は、昭和六一年七月一六日、被告病院総長に対し、被告太田を実施責任者とし、研究内容を後記の本件治験薬第二相臨床試験の研究実施要領(本件プロトコール)によること、及び、被験対象症例を四例とする、本件治験薬の卵巣癌、子宮頸癌における第二相臨床試験の研究に関する委託申込をし、被告太田は、同月一八日、被告病院倫理審査委員会委員長に対し、①本件治験薬の卵巣癌、子宮頸癌における第二相臨床試験の研究を右研究実施要領に基づいて行うこと、②本件治験薬は、造血機能の抑制、神経症状等の副作用が知られているが、第一相臨床試験の研究で検討された安全域で行うこと、③被験者には、研究の目的、方法、危険性、副作用等について説明し、理解と同意が得られた際に行うこと、④被験者あるいは家族の責任ある人に文書による同意を得るべく努力し、文書による同意がなんらかの理由で困難な場合には少なくとも口頭による同意を得たもののみを対象とすること等を記載した倫理審査申請書を提出し、被告病院総長は右研究委託を受託する旨の決定をし、被告病院倫理審査委員会も、右受託研究の実施を承認し、被告病院総長は塩野義製薬との間で研究期間を昭和六二年八月七日から昭和六三年三月三一日までとする研究委託契約を締結した。

(4) 本件治験薬は、第一相臨床試験(健常者を被験者とする臨床試験)の結果、用量制限因子は血小板の減少を中心とする骨髄毒性であることが明らかになり、昭和六二年六月五日開催の本件治験薬第二相臨床試験研究会において、体表面積一平方メートル当たり一二〇ミリグラムを投与すると白血球減少のほかとりわけ強い血小板減少が生じ、約半数の症例に重篤な血液毒性が出現した旨が報告され、これらの臨床成績等に基づき、被験者の保護に対する配慮と治験計画に関する科学的検討の結果、症例選択の条件を、当該臨床試験の時点で標準的治療法によって効果が得られなかったか、又は適切な治療法がなく、かつ、主要臓器(骨髄、心、肺、腎など)の機能が十分保持された症例とし、投与量及び投与間隔を一回量を体表面積一平方メートル当たり一〇〇ミリグラムとし、四週間の間隔で投与すべきことや、他の抗癌剤との併用禁止、骨髄機能の低下の際の投薬中止及び減量等に関する本件(1)ないし(10)の規定を含む本件治験薬第二相臨床試験の研究実施要領(本件プロトコール)が決定された。被告太田は、右研究会の婦人科癌分科会の研究員であり、本件プロトコールの作成にも関与した。

(二) プロトコール違反について

(1) ところが、前記二で説示したところから明らかなとおり、被告太田は、花子の疾病が標準的治療法によって効果が得られないとか、適切な治療法がないといった事情はなく、また、花子の血色素及び肝機能(GOT、GPT等)の数値は、本件プロトコールが症例選択の条件として定めた水準に達していなかったにもかかわらず、本件(1)ないし(3)の規定に違反して本件治験薬を花子に投与したほか、本件治験薬を他の抗癌剤と併用して、本件(5)の規定に違反し、第一回目の投与を除いて投与量及び投与間隔に関する本件(6)ないし(8)の規定、さらには本件治験薬の減量、中止を定めた本件(9)、(10)の各規定にも違反して、本件化学療法を継続したものであるから、被告太田の本件プロトコール違反の事実は明らかである(なお、インフォームド・コンセント原則を定めた本件(4)の規定についての違反行為に関する判断は後述する。)。

(2) そこで、さらに検討すると、右(一)に説示した事情によれば、患者を被験者とする第二相の臨床試験は、人体実験の側面を有するものであって、医療行為の限界に位置するから、専門的科学的検討を経て策定された治験計画(プロトコール)に基づき、被験者の保護に配慮し慎重に実施される必要があり、とりわけプロトコール中被験者保護の見地から定められた規定に違反する行為は、特別の事情がない限り、社会的にも許容することができず、社会的相当性を逸脱するものとして違法と評価されるべきである。そして、右(1)の被告太田の本件プロトコール違反行為を見れば、第一相の臨床試験の結果判明した本件治験薬の骨髄毒性から被験者を保護するため、本件プロトコールが症例選択の条件、投与量、投与方法等について定めた重要な規定に違反したものであり、その違反の程度も重大であって高度の危険性があり、かつ、右違反行為によって侵害された法益も重大であるから、当該行為の利益侵害行為としての態様及び被侵害利益の重大性の観点から考察しても、私法上違法性を帯びるものであることが明らかである。

ところで、《証拠省略》中には、①花子に対する本件治験薬の投与のうち第一回目と第二回目だけが臨床試験として行われ、その余は治療薬として使用されたものであるから、第三回目以降については本件プロトコールに従う必要はない旨、②第三回目以降の投与については、第一回目、第二回目の投与によって本件治験薬の花子に対する有効性と副作用の程度が明らかになったため、被告太田が適当と考える量と間隔を定めて投与したものであり、かつ、花子は、癌細胞の増殖により大量の血小板が消費され、そのままにおくと癌死するほかない状況にあったから、被告太田の措置は、本件プロトコールに違反するとはいっても、医学的相当性があり、医師の裁量の範囲内にある旨の記載及び供述部分があるが、右②の部分が、その前提を欠くものであって、本件治験薬の花子への投与により、本件治験薬が標準的治療法を超える有効性、安全性のあることが確認された事実はなく、また、本件プロトコールに違反した被告太田の診療行為には何ら学理上の合理的根拠、医学的相当性を認めることができないことも、前示のとおりであり、右①の部分についても、本件治験薬の使用に関する被告太田の内的動機の如何によって、花子に対する一連の本件治験薬投与のうち、臨床試験とそうではないものとが区分され、それぞれ行為準則を異にすると考えるべき合理的理由は見当たらない上、《証拠省略》によれば、被告太田は、第三回目以降の投与についても臨床試験として実施されたことを前提として、花子の症状の推移やデータ等を臨床調査表に記載していたことが認められること(ただし、データ等の記載に正確でない部分があることは、後記のとおりである。)、さらに、治療目的で薬事法の承認前の治験薬を使用する場合であっても、特別の事情がない限り、被験者保護の見地から設けられたプロトコールを遵守しないことが、医師の裁量権の範囲内にあるものとはいえないから、これらの事情に照らして採用することができない。

そして、被告太田は、本件プロトコール作成に関与した医師として、右各規定の趣旨を熟知し、被告病院倫理審査委員会に対しても、本件治験薬の臨床試験を本件プロトコールに基づいて行う旨や、本件治験薬について造血機能の抑制、神経症状等の副作用が知られているため、第一相臨床試験の研究で検討された安全域で行う旨の倫理審査申請書を提出していたのであるから、右違法行為を敢行するにつき故意又は過失があったことが明らかである。

してみれば、被告太田の本件プロトコール違反行為は、第二相臨床試験の被験者であり、患者である花子に対し、治験薬を使用して診療行為を行う場合に医師が遵守すべき注意義務に違反した不法行為であり、かつ、前述した医療上の利益給付を内容とする本件診療契約上の債務の不完全履行というべきである(前述した被告太田の医療上の過誤行為とは、責任原因の競合になるものと考えられる。)。

(三) データの改ざん、捏造について

《証拠省略》によれば、被告太田は、(1)昭和六三年五月二三日実施の抹消血検査による花子の血色素データ(骨髄機能)は一デリシッター当たり八・五グラムであり、また、同日実施の血清検査によるGOTは一七一ユニット、GPTが一九四ユニットであったのに、連絡票に開始前の検査値として血色素一〇・八グラムと、また、GOTは七一ユニット、GPTは八四ユニットとそれぞれ虚偽の数値を記入したこと、(2)同月二五日実施の腎機能検査によるクレアチニン・クリアランス値は、一分当たり九四・七ミリサッターであったのに、連絡票に開始前の検査値として六一・八と虚偽の数値を記入したこと、(3)花子に対する本件治験薬の投与について、同年六月八日に七五ミリグラムを、同年七月一日に七五ミリグラムを、同年九月一〇日に七五ミリグラムをそれぞれ投与しているのに、臨床調査表にこれらの事実を記入しなかったほか、累積投与量が一一〇五ミリグラムに達していたのに、八八〇ミリグラムと虚偽の数値を記入したこと、(4)本件治験薬をブレオマイシン、ビンブラスチン、ピシバニールと併用して投与しているのに、臨床調査表にこれらの事実を記入しなかったこと、(5)花子は本件治験薬臨床試験の症例として適格性を欠いていたのに、臨床調査表に「完全例」と虚偽の記入をしたこと、(6)花子に対し本件治験薬を投与することは安全上問題があったのに、臨床調査表に「安全性の検討」「適」と虚偽記入をしたこと、(7)花子に対し、同年六月三〇日、同年七月一五日、同年八月九日、二四日及び三〇日、同年九月一六日及び一七日にそれぞれ輸血をし、輸血が繰り返されていたのに、臨床調査表の総括副作用・検査値異常欄に「その他の処置なし」と虚偽の記入をしたことが認められ(る)《証拠判断省略》(同意取得の情報に関する記載の真偽については後述する。)。

被告太田の右行為の動機について検討すると、被告太田、本人尋問において、真実を記載すると本件治験薬が入手できなくなると考えたためであると供述するが、《証拠省略》によれば、当時塩野義製薬から被告病院に対しある程度の量の本件治験薬が届けられていて、被告太田本人の供述するように連絡票や臨床調査表に虚偽の記入をしなければ、本件治験薬を入手できないといった事情はなかったことが認められ、被告太田の右行為の動機は必ずしも明らかではないが、本件治験薬の花子に対する臨床試験が、症例選択条件や投与方法等の点でできるだけ本件プロトコールの定める要件を充足したものであるように外形を整えようとした可能性が最も強い。もっとも、乙第一号証の一のうち看護記録には、被告太田が、本件化学療法は輸血を施行しながらもやっていく意向であることを表明していたこと(昭和六三年九月八日欄)、花子が合併症を引き起し、急変することがあると考えられるが、数値的には非常に良いデータが出ているので、それでも、化学療法を継続していく考えであると述べていたこと(同月一三日欄)がそれぞれ記載されていて、被告太田の花子に対する本件治験薬の投与には、治療目的以外の動機が併存していた疑いもないわけではない。いずれにせよ、臨床試験の基礎データとして虚偽の数値を記載することは、前示のヘルシンキ宣言の精神にも反し、倫理的に非難されるべき行為であることは明らかである。しかし、これをもって、被告太田が専ら個人的関心や科学的に疑わしい研究の実験材料にするため、花子に対し本件治験薬を投与したことの証左であると断定するには未だ足りず、また、右行為自体によって花子の具体的利益が侵害されたというにも足りないから(後述するとおり、花子は、本件治験薬の被験者となることに同意していたわけではないから、被験者としての期待権が侵害されたということにも疑問があるように思われる。)、本件不法行為ないし不完全履行の態様に関する事情として、慰藉料算定の際に斟酌されるにとどまるものというべきである。

(四) インフォームド・コンセント原則違反について

前述のとおり、人体実験の側面を有する臨床試験の実施が、倫理的に許容されるためには、情報を開示した上、被験者から同意を得ることが必要不可欠であるが、法律的にこれを考察した場合においても、個人は生得の権利として自己の身体の完全性の利益が認められ、承諾を与えていない介入行為から自己の身体を守る権利があり、臨床試験に限らず少なからぬ医的侵襲や危険を伴う医療行為については、これを受けるかどうかは患者が決定する権利があるものというべきであり(乙第一七号証には「成年に達し正常な精神を有する者は、すべて、自らの身体に何がなされるべきかを決定する権利をもっている。」とした米国の判例を紹介した部分がある。)、したがって、そのような医療行為を行おうとする場合、医師は、当該医療行為の内容、必要性、危険性等について説明し、患者の同意を得る必要があるものというべきであり、このようなインフォームド・コンセント原則は、患者に対し医学的便益を提供して疾病や傷害を癒し、他方不要な苦痛は与えないように配慮して患者の福利を高めるべき診療契約上の受任業務の内容からも、導き出すことができよう(例えば、薬の副作用についての注意、適切な自己管理の指示、検査結果に関する情報提供あるいは医師が自己の医学的技術・判断を超えると判断した場合の転医転送(他の専門医への受診の勧告)など、医師が患者の福利のため適切な処置及び配慮をすべき義務を医師の療養指導業務として捉え、インフォームド・コンセント原則をこれに含める議論もあるから、準委任契約である診療契約上の義務と考えることも可能である。)。

もとより、医療行為は、高度の専門性を有し、人の生理機能という複雑な機序を持ちかつ個体差のある事象を対象とし、学理上あるいは臨床上困難な判断を求められることも少なくない上、人の生命、身体という社会にとって基本的かつ重大な利益にかかわるものであるから、専門的な教育を受け、知識、経験を積んだ資格のある医師のみがこれを行うことができるとされ、また、複雑かつ専門的な事象に適切かつ臨機応変に対応する必要から、医師の診療行為には一定の裁量権が承認されなければならない。しかしながら、人の生命、身体に最も切実で究極的な利害関係を有するのはこれをその存在の基盤とする当該個人自身であることはいうまでもなく、したがって、医療の場においても、自己の身体に対し少なからぬ医的侵襲や危険を伴う医療行為については、自己決定権という患者固有の人格権に基づき、患者自身がその諾否の意思決定をする権利を有するものというべきである。すなわち、医療行為の専門性に基づく医師の裁量権とはいっても、患者の生命、身体の利益を守るという医療上の目標を達成するために認められているのであって、これによって、患者の自己決定権が相対化されると解することはできない。右の意味で、インフォームド・コンセント原則とは、医療上のパターナリズム(父親が子の福利のため必要な行為や配慮をするが、子に選択や責任を認めないやり方)を基準にして、医師の診療態度の当否を議論することではなく、患者固有の自己決定権を承認し、医療に対する主体的関与を認める考え方である。

してみれば、インフォームド・コンセント原則に基づき、患者の同意を得る前提として、医師が尽くすべき説明義務の範囲は、患者が、医師から提示された医療行為について、主体的な判断による同意又は拒否の意思決定をするため、通常重要と考えられる事実や情況の説明であり、一般的には、(1)患者の病気の性質、(2)医師の採ろうとする医療行為の内容及び相当性、必要性、(3)当該措置の危険性及び予後の判断、(4)代替治療の存否等であると考えられる。

さらに、新薬の臨床試験の際のインフォームド・コンセント原則について検討すると、《証拠省略》によれば、厚生省が、新薬の臨床試験の実施に関する専門家会議の検討等を経て定め、平成二年一〇月から実施されている「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」(以下「GCP」という。)においては、被験者に対する説明事項として、(1)治験の目的及び方法、(2)予期される効果及び危険性、(3)患者を被験者とする場合には、他の療法の有無と内容、(4)被験者が参加を拒否しても、不利益を受けないこと、(5)被験者が治験参加に同意した場合でも、随時同意を撤回できること、(6)その他被験者の人権の保護に関し必要な事項の六項目が定められ、米国のFDA規則(以下「FDA規則」という。)では、インフォームド・コンセントの基本的事項について、(1)当該治験が研究を含むものであること、また、治験の目的、被験者参加期間、治験の手順及びそのうちの実験的手順、(2)予想される危険性と不快ないし苦痛、(3)被験者又は他の人に期待される利益、(4)他の治療法の可能性、(5)被験者の秘密保持の範囲、FDAによる記録査察の可能性、(6)障害が生じた場合の補償、治療方法及び追加情報入手先、(7)治験に関する質問相手並びに相談相手、(8)自由意志による治験参加及び脱退の保証の六項目が挙示されていること、そして、右のGCPの説明事項の内容とFDA規則の基本的事項の内容は基本的に変わらないと解されていること、以上の事実が認められる。これらの事情と、患者を被験者とする第二相の臨床試験が、人体実験の要素を有するものであって、医療行為の限界に位置し、専門的科学的検討を経て策定された治験計画に基づき、被験者の保護に配慮し慎重に実施されることによって、初めて倫理的に許容されるものであって、昭和三九年に採択されたヘルシンキ宣言においても、治験は治験計画に従って科学的に実施されるべきこと、治験による被験者の利益とリスクを比較し、被験者の利益を優先すべきこと、被験者には十分な説明を与えたうえで、できるだけ文書でインフォームド・コンセントを取得すること等の基本原則が謳われていたことを考えれば、被告太田の花子に対する本件診療当時においても、臨床試験を行い、あるいは治験薬を使用する治療法を採用する場合には、インフォームド・コンセント原則に基づく説明義務として、一般的な治療行為の際の説明事項に加えて、当該医療行為が医療水準として定着していない治療法であること、他に標準的な治療法があること、標準的な治療法によらず当該治療法を採用する必要性と相当性があること、並びにその学理的根拠、使用される治験薬の副作用と当該治療法の危険性、当該治験計画の概要、当該治験計画における被験者保護の規定の内容及びこれに従った医療行為実施の手順等を被験者本人(やむをえない事由があるときはその家族)に十分に理解させ、その上で当該治療法を実施するについて自発的な同意を取得する義務があったものというべきである(前示のとおり、「愛知県がんセンター受託研究実施細則」には、同意は同意書により行う旨が規定され、《証拠省略》によれば、塩野義製薬が厚生大臣に届け出た治験実施届出書添付のプロトコールには、同意書または主治医による確認書を記録に残すことと記載されていることを考えれば、同意書による同意取得を原則とするものというべきであり、証人福島雅典や被告太田本人が供述する被告病院における同意取得の実態や、平成六年一月総務庁作成の薬事に関する行政監察結果に基づく勧告書である乙第三二号証に記載されたその他の医療現場における同意取得の実態については、インフォームド・コンセント原則の重要性の認識が、未だ臨床現場に浸透していないことを示すものでしかない。)。

ところで、前示のとおり、臨床試験は、被験者保護の観点からも治験計画に基づき慎重に実施される必要があり、本来プロトコール違反の行為があってはならないものであるから、本件プロトコール中のインフォームド・コンセントに関する本件(4)の規定は、そのような恣意的な医療行為が行われることを防止する目的もあって、被験者に対し、研究の目的、方法、危険性、副作用等を説明し、理解と同意を得るべきことを定めたものと解され(だからこそ、被告太田においても、事前に、被告病院の倫理審査委員会に対し、臨床試験を本件プロトコールに基づいて行うとか、第一相臨床試験の研究で検討された安全域で行う旨を記載した倫理審査申請書を提出していたものと考えられる。)、プロトコールに違反する場合の説明義務を予定していたとは考え難いが、あえて、本件プロトコール中症例選択条件や治験薬の投与量及び投与間隔並びに他の抗癌剤との併用禁止など被験者保護の各規定に反する危険な医療行為を実施しようとする場合は、その旨及びその必要性、高度の危険性について具体的に説明し、被験者がその危険性を承知の上で選択権を行使するのでなければ、被験者の自己決定権を尊重したことにならないことはいうまでもない。

そこで、本件について検討すると、被告太田の陳述書である乙第二八号証には、次のとおり、花子に対する治療方法等の説明及び同意取得の経過に関する具体的な内容の陳述記載部分がある。すなわち、右陳述記載部分によると、被告太田において、花子に対し、昭和六三年五月二一日、花子の悪性腫瘍に対する治療は抗腫瘍剤による治療が中心になること、この腫瘍についてはブレオマイシン、ビンブラスチン、シスプラチンの三剤併用療法が効果的とされてきたが、そのうちシスプラチンは、腎機能障害を起こす可能性が強いので花子のような乏尿障害のある場合には使いにくい状況にあること、一方、シスプラチンと同じ系統の白金製剤であって、まだ、厚生省から認可のおりていない二五四S(本件治験薬)という名の治験段階の薬があって、この薬は第二相の効果試験に入っていて臨床的な成績はまだ多くないが、第二相の安全試験ではシスプラチンに比べて腎機能障害が少ないと報告されていること、以上のとおり説明し、その説明を聞いた花子は、薬のことはよく分からないので、被告太田が最もよいと考える治療をしてほしいと答えたというのであり、さらに、被告太田において、花子に対し、二五四Sは治験段階にある薬であるので、慎重を期して、第一回目と第二回目は二五四Sだけを使用してみて、それが安全で有効であると判断されたときは、なるべく早い時期に二五四Sにブレオマイシンとビンブラスチンを併用する療法に切り換えるつもりである旨を説明し、花子からは、疑問や質問も発せられることもなく、お任せすると返答したというのである。そして、翌二二日にも念のため同じ説明をして快諾を得、同月二三日には、本件治験薬の副作用について、通常初めに出る副作用は悪心、嘔吐で、下痢もしくは便秘となることもあること、次いで、貧血、白血球減少、血小板減少症等の造血機能障害が出ること、比較的少ないが腎機能不全の可能性もあること、さらに、顔色が黒ずんできたり、髪の毛が細くなってちじれて抜けたような状態になることなどを説明し、副作用の程度については、薬なしで耐えられるときは軽度、薬で我慢できれば中等度、薬で我慢できない場合は重度と評価することも説明したところ、花子は、右の説明を理解した上、本件治験薬を使用する化学療法の実施を承諾したというのである。また、被告太田本人尋問の結果中には、被告太田が、花子に対し、第一相試験が安全確認のための試験であり、第二相試験が薬剤効果をみる試験あるいはこれを主体とした試験である旨非常におおまかな説明をし、プロトコールの存在と内容の一部も説明した旨の供述部分があり、そのほか、前掲乙第二八号証の記載及び被告太田本人尋問の結果中には、それより前の同月一六日、被告太田が、原告太郎に対し、花子が延命できるか、病気で亡くなるかは、抗癌剤が効くかどうかであり、白金製剤にはかなり有効なものもあるが、認可されていないけれど良いかと尋ねたところ、原告太郎はこれを了承した旨の部分がある。

しかし、右陳述記載や被告太田本人の供述にかかる事実関係を前提にした場合でも、そのような説明によっては、花子の疾病に対する標準的治療法がPVB療法であり、本件治験薬を使用した治療法が医療水準として定着していない治療法であること、本件治験薬と同じ骨髄毒性を有するビンブラスチンとの併用療法が高度の危険性を有することを理解させるには十分とはいえないだけでなく、花子の身体状態(主要臓器機能等)が、本件プロトコールの定める症例選択の条件を具備していなかったこと、被験者保護の見地から設けられた本件プロトコールの規定に違反する投与量、投与方法をあえて採用することの説明がない上、前示のとおり、花子に対し標準的治療法であるPVB療法を施行することに支障がなく、また、本件治験薬を使用する治療法が、PVB療法より治療効果があると認めるべき学理上の合理的根拠や臨床上の知見もなかったのであるから、被告太田は、花子に対し、正しい情報提供を怠ったものというほかない。してみれば、かかる状況のもとで、仮に被告太田本人の供述するとおり、花子が、薬のことはよく分からないので被告太田に任せるとか、被告太田が最もよいと考える治療をしてほしいと答えたとしても、花子が、本件化学療法の危険性等を十分理解した上で、自律的判断に基づき主体的な意思決定としてこれを承諾したものということはできないことが明らかである。

そうすると、被告太田のインフォームド・コンセント原則違反の事実は、右の点から既に明らかであるが、遡って、前記の被告太田の陳述書の記載及び本人尋問の結果の際の供述の信用性についても検討を加えることとする。

被告太田本人尋問の結果によれば、前記陳述記載部分や被告太田本人の供述の内容は、全て被告太田の記憶によるというのであり、客観的資料等を根拠とするものではないというのであるところ、《証拠省略》によれば、被告太田は、本件訴訟が提起される前新聞記者や放送記者から質問されて、花子に対し、「世の中に出ていない新しい薬を使うから了承してもらえるか、とは言ったはずだ。」とか、「なんらかのかたちでね、これがまだ世の中に発売されていない薬であるってことは、なんらかのかたちで必ずいいました。」と言った程度の曖昧な弁明をしていたのであって、前記の陳述記載にあるように、本件治験薬やPVB療法で使用される薬について個々に具体的な薬剤名を上げて説明したとか、第一相、第二相臨床試験の内容について説明した上、本件治験薬が治験薬として第二相の臨床試験の段階にある等といった具体的な説明をしたとは述べていなかったことが認められ、また、被告太田は、本人尋問においては、薬事法による承認前の治験薬について、花子に対しどのような言葉を使用して説明したかについて、具体的な記憶はないことを自認した上、一般的には、「これはまだ厚生省で認可の下りていない治験薬だ。」という表現をしていたので、多分そうしたと思う旨曖昧な供述をしていること、(2)《証拠省略》によれば、被告太田が、花子に対し、病状や治療法等について説明したときは、診療録や看護記録にその旨記載されていることが認められるほか、被告太田は、他の患者から治験薬の使用について同意を取得したときは、診療録にその旨の記載をしていたことを自認するところ、前記陳述記載や被告太田本人の供述にかかる三日間にわたる説明及び同意取得については、いずれも花子の診療録及び看護記録にその旨の記載がないこと、(3)証人福島雅典の証言によれば、被告病院において医師が回診するときには、ほとんど看護婦が立ち会っており、医師が患者に説明した治療方針等を記録することが認められるところ、被告太田は、花子に対する右説明の際には三日間とも看護婦等を同席してなかったとする供述をしていること、(4)前示のとおり、被告太田は、被告病院倫理審査委員会に対し、被験者あるいは家族の責任ある人に文書による同意を得ることを原則とする旨の倫理審査申請書を提出しているところ、本件全証拠によると、花子について本人あるいは家族から文書による同意取得を困難とする事情があったことを認めるに足りないこと、以上の事情に照らせば、花子に対する治療法等の説明や同意取得に関する前記陳述記載部分及び被告太田本人の供述部分は、極めて不自然、不合理な内容であって採用することができない。

かえって、《証拠省略》によれば、原告太郎は、花子の回復を願う気持ちから、日常の出来事のほか、花子の療養経過や岩田病院医師及び被告太田から受けた説明内容を、その都度日記風に手帳に記載していたことが認められ、かつ、《証拠省略》によれば、右手帳の記載内容は、本件紛争が予想できない段階から、花子の病状や治療方法に関する医師の説明等について、歯科技工士である原告太郎が、自分が理解したところに従い、自らの表現方法で記したものであることが認められ、作為が加えられた証跡もなく、また、右の作成の動機や作成過程における制約等に照らして考えれば、乙第一号証の一の花子の診療録及び看護記録の記載内容とも符合するものといってよく、信用性が認められるところ、《証拠省略》によれば、被告太田は、原告太郎に対し、強力な薬なので副作用で大変である旨や、今後も同じような強力な治療が必要であるとの抽象的な説明をしただけで、それ以上の説明はなく、原告太郎の依頼により花子に対し癌の告知をしないことを約束していた被告太田(被告太田も自認するところである。)において、原告太郎にした以上の説明を花子にしたとも考えにくい状況にあった上、花子から原告太郎に対しそのような説明がなされたことの報告もなかったことが認められるから、右認定の事実や前記(1)ないし(4)の事情によれば、被告太田は、花子やその家族に対し、薬事法に基づく承認前の治験薬を使用することや、臨床試験として本件治験薬を花子に投与することすら説明しなかったものと認められる(したがって、被告太田には本件(4)の規定に違反する行為も認められ、同意取得の情報に反する連絡票、臨床調査表の記載も虚偽記入であったというべきである。)。

そして、《証拠省略》によれば、被告太田から花子や原告太郎に対し、本件化学療法が、薬事法の承認前の本件治験薬を使用し、被験者の保護のためのプロトコールの規定にも違反するような危険な治療法であることが説明されておれば、花子や原告太郎においてこれを承諾することはなかったことが認められるから、被告太田のインフォームド・コンセント原則違反行為と花子の死亡との間には相当因果関係を認めることができる(前示の各不法行為、不完全履行とは責任原因の競合となる。)。

3(一)  前示のとおり、被告太田は、医師として、花子の疾病に関する当時の医療水準に適合する診療行為を行い、かつ、患者の危険防止のため当時の医学的知見に基づく最善の措置を採るべき注意義務に違反したほか、臨床試験のため治験薬を使用する化学療法を行う場合に尽くすべき注意義務にも違反し、かつ、インフォームド・コンセント原則にも違反し、その結果花子を死亡させたものであるから、不法行為責任に基づき、花子や原告太郎の被った後記損害を賠償すべき義務がある。

(二) 被告愛知県は、被告太田を雇用して被告病院の医療業務に従事させていたところ、被告太田がその業務を執行するに当たり、本件不法行為に及んで花子を死亡させたものであるから、使用者責任に基づき、花子や原告太郎の被った後記損害を賠償すべき義務があり、また、被告太田は、被告愛知県の履行補助者として本件診療契約に基づく債務の履行に当たっていたところ、債務の本旨に従った履行をせず、不完全履行があったのであるから、被告愛知県は、債務不履行責任に基づき、花子が被った後記損害を賠償すべき責任がある。

四  そこで、損害について検討する。

1  慰藉料

花子は、被告太田の、医師として当時の医療水準に適合する診療行為を行い、患者の危険防止のため当時の医学的知見に基づく最善の措置を採るべき注意義務に違反し、かつ、臨床試験の際に厳しく遵守されるべき被験者の安全に対する配慮にも著しく欠けた非人道的な行為により、さらには、被験者の自己決定権を無視し、花子に対し情報開示することも、同意を求めることもないまま、勝手に臨床試験の対象とし、本件治験薬を投与するという倫理的にも厳しく非難されるべき違法行為により、継続的に骨髄毒性の強い化学療法に曝され、その結果、点状出血斑等皮膚から出血症状のほか、消化管内等に感染症を併発し、多量の粘血便の排出や多量の鮮紅色下血を来するとともに高熱を発し、脳出血による中枢神経系の異常も出現し、痛ましい姿で死亡するに至ったものであって、その精神的苦痛は甚大であり、そのほか、被告太田の花子に対する診療過程には、被告太田が、花子の臨床試験の基礎データ等について虚偽の記入をするという倫理的に非難されるべき行為もあったから、これらの事情を総合考慮すると、後記のとおり花子の余命が一年ないし一年半と推定されることを斟酌しても、花子の被った精神的苦痛に対する慰藉料は、三〇〇〇万円と認めるのが相当である。

2  逸失利益

原告らは、請求原因8(二)のとおり、被告太田の本件不法行為又は不完全履行がなければ、花子が平均稼働期間の終期である六七歳まで稼働することができたことを前提にして、花子の逸失利益について主張する。

しかし、鑑定の結果によれば、(一)入院後の花子の病変については、CT検査及びガリュウムシンチ検査によって、肝臓実質内転移と横隔膜を越える部分への転移が認められ、進行期Ⅳ期の卵黄嚢腫瘍と診断されるが、極めて予後が悪い疾病であり、胚細胞性腫瘍のうち最も頻度も高い未分化胚細胞腫瘍もしくは未熟奇形腫が、PVB療法によって際立った成績を上げているのとは対象的に、進行期Ⅳ期の卵黄嚢腫瘍については、海外及び本邦の医学文献で紹介された症例三例のうち一例の生存が得られたにすぎず、本邦の二例については、PVB療法を受けたにもかかわらず、一年二か月及び一年八か月程度でいずれも死亡に至っていること、(二)本邦の右(一)と同じ研究結果によると、卵黄嚢腫瘍及び混合性悪性胚細胞性腫瘍の群の進行期Ⅲ期の症例一八例(ただし、シスプラチンを含む化学療法がなされているのは、三八・六パーセントである。)の中間生存期間は、八ないし一〇か月であること、(三)右(一)、(二)の事実や花子の疾病の性質、病状の程度等を考えると、花子が当初からPVB療法を受けた場合でも、余命は一年あるいは一年半と推定できること、以上のとおり認められる。

もっとも、福島雅典の陳述書である甲第四〇号証中には、当初から花子に対しPVB療法が施行されていれば、少なくとも、一旦は非常に良好な状態で家庭に復帰できた旨の記載があり、同人の証言にも同旨の部分がある。しかし、鑑定の結果によれば、右陳述書が論拠として引用する米国の臨床腫瘍学会の文献は、PVB療法に最も感受性の高い未分化胚細胞腫、絨毛癌等の腫瘍群を含んだ卵巣性原発胚細胞腫瘍に対する同療法の成績を記載したものであって、症例の片寄りが成績を結果的に良好にしている可能性があること、同じく米国の医学文献である同第二八号証の一、二も、花子のように進行期Ⅳ期で肝臓に数センチメートル以上の転移のある症例については、必ずしも参考にはならないこと、また、進行睾丸腫瘍に関する米国の医学文献である同第二六号証の記載も、睾丸腫瘍は転移及び再発が起こっても、ほとんど後腹膜リンパ節を手術的に切除することによって残存腫瘍を除去することが可能であり、卵巣癌のように腹膜全体に播種して腹腔内全体が腫瘍で占拠され、手術で完全摘出ができない疾病とは背景を異にし、同列に論じることはできないこと、以上の事情が認められるから、右の甲第四〇号証の記載及び証人福島雅典の供述部分は、にわかに採用することができず、他に花子の余命に関する前記認定を動かすに足りる証拠はない。

以上の事実や入院当初の花子の病気の状態、その後の臨床経過等の諸事情にかんがみると、花子が当初からPVB療法を受けたとしても、稼働能力を回復するまでに症状が改善されたということには疑問があり、原告らの右主張は証明不十分である。

3  葬儀費用

弁論の全趣旨によれば、原告太郎において花子の葬儀を執り行ったことが認められるところ、相当な葬儀費用の額は一〇〇万円と認めるのが相当である。

4  花子の相続

《証拠省略》によれば、花子の死亡に伴い、原告らが、法定相続分(原告太郎が二分の一、同A野一郎と同A野春子が各四分の一)の割合で、花子を共同相続したことが認められ、右相続により、右1の花子の慰藉料債権のうち、原告太郎が一五〇〇万円を、原告A野一郎及び同A野春子が各七五〇万円をそれぞれ取得したものというべきである。

5  弁護士費用

原告らが、本件原告ら訴訟代理人らに対し、本件訴訟の提起と追行を委任したことは、当裁判所に顕著であり、本件事案の内容、難易度、認容額等の事情を考慮すると、本件不法行為又は不完全履行と相当因果関係のある弁護士費用は、三〇〇万円(原告太郎一五〇万円、原告A野一郎及び同A野春子各七五〇万円)と認めるのが相当である。

第四結論

以上によれば、原告らの本訴請求は、不法行為及び使用者責任に基づく損害賠償として、主文第一項掲記の限度で正当と認められるから、その範囲においてこれを認容し、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条、六五条、仮執行宣言につき同法二五九条を各適用し、仮執行宣言免脱申立ては相当ではないので、却下することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 髙橋勝男 裁判官 中園浩一郎 高谷英司)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例